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世阿弥作


ワキ 夫
ツレ 夕霧
シテ 妻


ワキ 前に同じ
シテ 妻の亡霊

地は 筑前
季は 秋

ワキ詞「是は九州蘆屋の何某にて候。我自訴の事あるにより在京仕りて候。仮初の在京と存じ候へども。当年三歳に為りて候。あまりに故郷の事心もとなく候ふ程に。めしつかひ候ふ夕霧と申す女を下さばやと思ひ候。いかに夕霧。あまりに故郷心もとなく候ふ程に。おことを下し候ふべし。此年の暮には必下るべき由心得て申し候へ。
ツレ詞「さらばやがて下り候ふべし。かならず此年の暮には御下りあらうずるにて候。
道行「此程の。旅の衣の日も添ひて。〳〵。いく夕暮の宿ならん。夢も数そふ仮枕。明かし暮らして程もなく。蘆屋の里につきにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。蘆屋の里に着きて候。やがて案内を申さうずるにて候。いかに誰か御入り候。都より夕霧が参りたる由御申し候へ。
シテサシ「夫れ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思ひを悲しみ。比目の枕の上には。波を隔つる愁ひ有り。ましてや深き妹脊の中。同じ世をだに忍草。我は忘れぬ音を泣きて。袖にあまれる涙の雨の。晴間まれなる心かな。
ツレ詞「夕霧が参りたる由それ〳〵御申し候へ。
シテ詞「何夕霧と申すか。人までもあるまじ此方へ来り候へ。いかに夕霧めづらしながら恨めしや。人こそ変はり果て給ふとも。風の行方のたよりにも。などや音づれ無かりけるぞ。
ツレ「さん候とくにも参りたくは候ひつれども。御宮づかひの隙も無くて。心より外に三年まで。都にこそは候ひしが。
シテ「なに都ずまひを心の外とや。思ひやれ実には都の花ざかり。なぐさみ多きをり〳〵にだに。憂きは心の習ひぞかし。
下歌「鄙の住居に秋の暮れ。人目も草もかれ〴〵の。契りも絶えはてぬ。何を頼まん身のゆくへ。
上歌「三年の秋の夢ならば。〳〵。憂きは其まゝ覚めもせで。思出は身に残り。昔はかはり跡もなし。実にや偽りの。なき世なりせば如何ばかり。人の言の葉うれしからん。愚の心やな。愚なりける頼みかな。
シテ詞「あら不思議や。何やらんあなたに当つて物音の聞え候。あれは何にて候ふぞ。
ツレ詞「あれは里人の碪打つ音にて候。
シテ「げにや我身の憂きまゝに。古事の思ひ出でられて候ふぞや。唐に蘇武といひし人。胡国とやらんに捨ておかれしに。故郷にとゞめおきし妻や子。夜寒の寝覚を思ひやり。高楼に登つて碪を打つ。志の末通りけるか。万里の外なる蘇武が旅寝に。故郷の碪聞えしとなり。妾も思ひや慰むと。とてもさびしきくれはとり。綾の衣を碪に打ちて。心を慰まばやと思ひ候。
ツレ「いや碪などは賤しき者の業にてこそ候へ。さりながら御心なぐさめん為めにて候はゞ。碪をこしらへて参らせ候ふべし。
シテ「いざ〳〵碪打たんとて。馴れて臥猪の床の上。
ツレ「涙かたしく狭莚に。
シテ「思ひをのぶる便りぞと。
ツレ「夕霧立ちより諸共に。
シテ「恨みの碪。
ツレ「打つとかや。
地次第「衣に落つる松の声。衣に落ちて松の声。夜寒を風や知らすらん。
シテ一声「音づれの。稀なる中の秋風に。
地「憂きを知らする夕べかな。
シテ「遠里人もながむらん。
地「誰が世と月はよも訪はじ。
シテサシ「面白の折からや。頃しも秋の夕つ方。
地「牡鹿の声も心凄く。見ぬ山風を送りきて。梢は何れ一葉ちる。空すさましき月影の。軒の忍ぶに移ろひて。
シテ「露の玉垂かゝる身の。
地「思をのぶる夜すがらかな。宮漏高く立ちて風北に廻り。
シテ「隣砧緩く急にして月西に流る。
地「蘇武が旅寝は北の国。是は東の空なれば。西より来る秋の風の。吹き送れと。間遠の衣打たうよ。
地「故郷の。軒端の松も心せよ。己が枝々に。嵐の音を残すなよ。今の碪の声そへて。君がそなたに吹けや風。余りに吹きて松風よ。わが心。通ひて人に見ゆならば。其夢を破るな。破れて後は此衣。誰か来ても訪ふべき。来て訪ふならばいつまでも。衣は裁ちも更へなん。夏衣。うすき契りは忌まはしや。君が命は長き夜の。月にはとても寝られぬに。いざ〳〵衣打たうよ。彼七夕の契りには。一夜ばかりの狩衣。天の河波立ち隔て。逢ふ瀬かひなき浮舟の。梶の葉もろき露なみだ。二つの袖やしをるらん。水陰草ならば。波うち寄せようたかた。
シテ「文月七日の暁や。
地「八月九月。実にまさに長き夜。千声万声の。憂きを人に知らせばや。月の色風のけしき。影におく霜までも。心すごき折ふしに。碪の音夜嵐。かなしみの声虫の音。まじりて落つる露涙。ほろ〳〵はら〳〵〳〵と。いづれ碪の音やらん。
ツレ詞「いかに申し候。都より人の参りて候ふが。此年の暮にも御下りあるまじきにて候。
シテ「恨めしやせめては年の暮をこそ。偽りながら待ちつるに。さてはゝや誠に変はり果て給ふぞや。
下歌地「思はじと思ふ心も弱るかな。
上歌「声も枯野の虫の音の。乱るゝ草の花心。風狂じたる心地して。病の床に伏し沈み。つひに空しくなりにけり。〳〵。(中入)
ワキ詞「無慙やな三年過ぎぬる事を恨み。引き別れにし妻琴の。つひの別れとなりけるぞや。
歌「さきだゝぬ。悔の八千度百夜草。悔の八千度百夜草の。陰よりも二度。帰りくる道と聞くからに。梓の弓の裏弭に。言葉をかはすあはれさよ。〳〵。
後ジテ「三瀬川。沈みはてにしうたかたの。あはれはかなき身のゆくへかな。標梅花の光りを並べては。娑婆の春をあらはし。
地「跡のしるべの灯は。
シテ「真如の秋の月を見する。さりながら我は邪婬の業ふかき。思ひの煙の立居だに。安からざりし報いの罪の。乱るゝ心のいと責めて。獄卒阿防羅刹の。標の数のひまもなく。打てや〳〵と報いの碪。恨めしかりける因果の妄執。
歌「因果の妄執の思ひの涙。碪にかゝれば。涙はかへつて火焰と為つて。胸の煙の焰にむせべば。叫べど声が出でばこそ。碪も音なく松風も聞えず。呵責の声のみ恐ろしや。
歌「羊のあゆみ隙の駒。〳〵。うつりゆくなる六つの道。因果の小車の。火宅の門を出でざれば。めぐりめぐれども。生死の海は離るまじや。あぢきなの浮世や。
シテ「恨みは葛の葉の。
地「恨みは葛の葉の。帰りかねて執心の面影の。恥かしや思夫の。二世と契りてもなほ。末の松山千代までと。かけし頼みはあだ波の。あらよしなや空言や。そもかゝる人の心か。
シテ「烏てふ。大をそ鳥も心して。
地「うつし人とは誰かいふ。草木も時を知り。鳥獣も心あるや。げにまこと喩へつる。蘇武は旅雁に文を附け。万里の南国に至りしも。契りの深き志。浅からざりし故ぞかし。君いかなれば旅枕。夜寒の衣うつゝとも。夢ともせめてなど。思ひ知らずや恨めしや。
地「法華読誦の力にて。〳〵。幽霊まさに成仏の。道明らかになりにけり。是も思へば仮初に。打ちし碪の声の内。開くる法の花心。菩提の種となりにけり。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著

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