草薙
前 ワキ 恵心僧都 シテ 花売男 ツレ 花売女 後 ワキ 前に同じ。 シテ 日本武尊 ツレ 橘媛 地は 尾張 季は 五月 ワキ詞「是は比叡山に住む恵心の僧都にて候。我此程尾張の国熱田に参り。一七日参籠申し。最勝王経を講じ奉り候。又こゝに何くとも知らず男女の候ふが。草花を持ちて来り候。今日も来りて候はゞ。如何なる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 シテ、ツレ一声「郭公花橘の香を認めて。鳴くや五月の菖蒲草。 サシ「是は上野に見ゆる彼岡に草を刈り。売りて命の露を継ぐ。荒村の野人にて候ふなり。 ツレ「是も立ち添ふ夏衣。重ねの袖は碓氷山。隔てし中を忘れねば。実さへ花さへ常磐に売る。橘の貧女にて候。 シテ「それ人間の容貌は。朝に栄え夕べに衰へ。電光石火の光の陰。時人を待たぬ蘆の屋の。 二人下歌「射るより早く明け暮れて。限りや涙なるらん。 上歌「月は見ん。月には見えじながらへて。〳〵。浮世を廻る。影も羽束師の。森の下草咲きにけり。花ながら刈りて売らうよ。日頃経て。待つ日は聞かず時鳥。匂ひ求めて尋ねくる。花橘や召さるゝ。〳〵。 ワキ詞「如何に申すべき事の候。かた〴〵の持ち給ひたる草花の名を承りたく候。 ツレ詞「なふ此橘召され候へ。 シテ詞「此草花召され候へ。色々の。 地「色々の。草木の数は白露の。枝に霜は置くとも。猶常磐なれや橘の。目覚草の戯れ。御僧の身には何事も。包むとしは無くとも。説き置く法の古へを。忍草を召されよや。〳〵。 ワキ詞「草花の数は承り候。さて〳〵御身は如何なる人ぞ名を御名乗り候へ。 シテ詞「先かやうに承り候。御身は如何なる人にて御座候ふぞ。 ワキ「さん候是は比叡山に住む恵心の僧都にて候ふが。当社に参り一七日最勝王経を講じ奉り候。 ツレ「さては有難や我等が望む御経なり。 シテ詞「我久しく当社の権扉を押しひらき。長へに国家を守る。 二人「然りといへども猶五穀を成就せしめ。人寿円長なる事を求むるに。唯此経の徳ならずや。 シテ「又我等二人は夫婦の者。或は草薙の神剣を守る神となる。 ツレ「又は蓬が島とかや。常世の木の実の名を留めて。齢を延ぶる仙女となる。 シテ「七日の御経結願の夜。 地「灯の影に立ち添ひて。姿をまみえ申すべしと。語れば白鳥の。峰の薄雲立ち渡り。風すさましく雨落ちて。暮れ行く空は薄墨の。かき消すやうに失せにけり。〳〵。(中入) ワキ歌「御殿忽ち鳴動し。〳〵。日月光り雲晴れて。山の端出づる如くにて。顕はれ給ふ不思議さよ。〳〵。 後ジテ「あら有難の御経やな。灯の影に姿をまみえ。五衰の眠りを無上正覚の月に覚まし。衆生等も同じく。息災延命なる事を守るなり。 ツレ「我は熱田の源太夫が娘。橘姫の霊魂なり。 シテ「我は是れ景行天皇第三の皇子。日本武の尊。 地「神剣を守る神となる。是れ素盞嗚の神霊なり。 地「そも〳〵人皇十二代。景行天皇十一年。東夷頻りに起りしかば。依りて国の東穏かならず。急ぎ退治すべしとて。第三の皇子。日本武の尊を下し奉る。 シテ「其後伊勢皇大神宮へ申させ給ひて。 地「熱田の神剣をも下し奉り給ふ。 シテ詞「斯くて東夷を平らげんと発向する所に。出雲の国にて素盞嗚の尊に斬られし大蛇。件の剣をたぶらかさんと。大山となつて道を塞ぐ。されども事ともせず馳け破つて通りしより。今の二村山となる。其後駿河の国まで攻め下るに。夷敵十万余騎。兜を脱ぎ戈を伏せて降参し。頻りに御狩の御遊をすすむ。頃は神無月十日余りの事なれば。冬野の景の面白さに。何心なく打ち出でたりしに。夷四方の囲みをなし。枯野の草に火をかくれば。 地「余焰頻りに燃え来り。〳〵。遁れ出づべき方もなく。敵攻鼓を打ち懸けて。火焰を放してかゝりけるに。 シテ「尊剣を抜いて。 地「尊剣を抜いて。敵を払ひ忽ちに。焰も去り退けと。四方の草を薙ぎ払へば。剣の精霊嵐となつて。煙も草も吹きかへされて。天にむらがり地にうづまいて。夷の陣に吹き暗がつて。猛火はかへつて敵を焼けば。数万の夷ども。皆焼け死にて其跡の。熾は積つて山の如し。それより名づけつゝ。こゝを興津と夕汐の。御剣も納まり。尊もつゝがましまさず。世を治め給ひし。草薙の剣は是なり。 地「其後四海穏かに。〳〵。国に飛火の名を聞かず。当社旧りぬる御剣の。久しき代々に末を経。神道も栄え国も富み。人も息災なる事は。唯此経の徳とかや。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著