熊坂
禅竹作 前 ワキ 都の僧 シテ 赤坂の僧 後 ワキ 前に同じ シテ 熊坂長範 地は 美濃 季は 秋 ワキ次第「憂しとは言ひて捨つる身の。〳〵。行方いつとか定むらん。 詞「是は都方より出でたる僧にて候。我いまだ東国を見ず候ふ程に。只今思ひ立ち東国修行と志し候。 道行「山越えて。近江路なれや湖の。〳〵。粟津の森も見え渡る。瀬田の長橋うち過ぎて。野路篠原に夜をこめて。朝立つ道の露深き。名こそ青野が原ながら。色づく色か赤坂の。里も暮れ行く日影かな。〳〵。 シテ詞「なふ〳〵あれなる御僧に申すべき事の候。 ワキ詞「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。 シテ「今日はさる者の命日にて候ふ弔ひて賜はり候へ。 ワキ「それこそ出家の望みなれ。さりながら誰と志して回向申すべき。 シテ「たとひ其名は申さずとも。あれに見えたる一木の松の。少し此方の萱原こそ。唯今申す古墳なれ。往復ならねば申すなり。 ワキ「あら何ともなや。誰と名を知らで回向は如何ならん。 シテ「よしそれとても苦しからず。法界衆生平等利益。 ワキ「出離生死を。 シテ「離れよとの。 地「御弔ひを身に受けば。〳〵。たとひ其名は名のらずとも。受け喜ばゝ。それこそ主よ有難や。回向は草木国土まで。漏らさじなれば分きて其。主にと心あてなくとも。さてこそ回向なれ。浮までは如何あるべき。 シテ詞「さらば此方へ御入り候へ。愚僧が庵室の候ふに一夜を明かして御通り候へ。 ワキ詞「さらばかう参らうずるにて候。如何に申し候。持仏堂に参り勤めを始めうずると存じ候ふ処に。安置し給ふべき絵像木像の形もなく。一壁には大長刀。手杖にあらざる鉄の棒。其外兵具をひつしと立て置かれ候ふは。何と申したる御事にて候ふぞ。 シテ「さん候此僧は未だ初発心の者にて候ふが。御覧候ふ如く此あたりは。垂井青墓赤坂とて。其里々は多けれども。間々の道すがら。青野が原の草高く。青墓小安の森しげれば。昼ともいはず雨の内には。山賊夜盗のぬす人ら。高荷を落し里通ひの。下女やはしたの者までも。打ち剥ぎとられ泣き叫ぶ。さやうの時は此僧も。例の長刀ひつさげつゝ。こゝをば愚僧に任せよと。呼ばゝりかくれば実には又。一度はさもなき時もあり。さやうの時は此所の。便りにもなる物ぞかしと。喜びあへば然るべしと。思ふばかりの心なり。なんぼうあさましき世を捨者の所存候ふぞ。 クセ「しゝようなき手柄。 地「似あはぬ僧の腕立。さこそをかしと思すらん。さりながら仏も。弥陀の利剣や愛染は。方便の弓に矢をはげ。多門は鉾を横たへて。悪魔を降伏し。災難を払ひ給へり。 シテ「されば愛著慈悲心は。 地「達多が五逆にすぐれ方便の殺生は。菩薩の六度に勝れりとか。これを見かれを聞き。他を是非知らぬ身の行くへ。迷ふも悟るも心ぞや。されば心の師とはなり。心を師とせざれと。古き詞に知られたり。かやうの物語。申さば夜も明けなまし。お休みあれや御僧達。我もまどろまんさらばと。眠蔵に入るよと見えつるが。形も失せて庵室も。草むらとなりて松陰に。夜を明かしたる不思議さよ。〳〵。(中入) ワキ「一夜ふす。男鹿の角の束の間も。〳〵。寐られん物か秋風の。松の下臥よもすがら。声仏事をやなしぬらん。〳〵。 後ジテ「東南に風立つて西北に雲しづかならず。夕闇の夜風烈しき山陰に。 地「梢木の間やさわぐらん。 シテ「有明頃かいつしかに。 地「月は出でゝも朧夜なるべし。切り入れ攻めよと前後を下知し。弓手や馬手に心を配つて。人の宝を奪ひし悪逆。娑婆の執心。これ御覧ぜよあさましや。 ワキ詞「熊坂の長範にてましますか。其時の有様御物語り候へ。 シテ「さても三条の吉次信高とて。黄金を商なふ商人あつて。毎年数多の宝を集めて。高荷を作つて奥へ下る。あつぱれ之を取らばやと。与力の人数は誰々ぞ。 ワキ「さて国々より集まりし。中に取りても誰が有りしぞ。 シテ「河内の覚紹。 詞「磨針太郎兄弟は。表討には並びなし。 ワキ「さて又都の其内に。多き中にも誰が有りしぞ。 シテ「三条の衛門壬生の小猿。 ワキ「火ともしの上手分切には。 シテ「是等に上はよも越さじ。 ワキ「さて北国には越前の。 シテ「浅生の松若三国の九郎。 ワキ「加賀の国には熊坂の。 シテ「此長範を始として。究竟の手柄の痴者ら。七十人は与力して。 ワキ「吉次がとほる道すがら。野にも山にも宿泊に。目付を附けて之を見す。 シテ「此赤坂の宿に着く。こゝこそ究竟の所なれ。引場も四方に道多し。見れば宵より遊君すゑ。数百のあそび時をうつす。 ワキ「夜も更け行けば吉次兄弟。前後も知らず臥したりしに。 シテ「十六七の小男の。目の内人に勝れたるが。障子の透間物合の。そよともするを心にかけて。 ワキ「少しも臥さでありけるを。 シテ「牛若殿とは夢にも知らず。 ワキ「運の尽きぬる盗人等。 シテ「機嫌はよきぞ。 ワキ「はや。 シテ「入れと。 地「いふこそ程も久しけれ。〳〵。皆我先にと松明を。投げ込み〳〵乱れ入る勢は。やうやく神も。面を向くべきやうぞなき。然れども牛若子。少し恐るゝけしきなく。小太刀を抜いて渡り合ひ。獅子奮迅虎乱入。飛鳥の翔の手を砕き。攻め戦へばこらへず。表に進む十三人。同じ枕に切り伏せられ。其外手負太刀を捨て。具足を奪はれはふ〳〵逃げて。命ばかりを遁るもあり。熊坂いふやう。此者どもを手の下に。討つは如何さま鬼神か。人間にてはよもあらじ。盗も命のありてこそ。あら枝葉や引かんとて。長刀杖につき。うしろめたくも引きけるが。 シテ「熊坂思ふやう。 地「熊坂思ふやう。もの〳〵し其冠者が。切るといふともさぞ有るらん。熊坂秘術を振ふならば。如何なる天魔鬼神なりとも。中につかんで微塵になし。討たれたるものどもの。いで供養に報ぜんとて。道より取つて返し。例の長刀引きそばめ。折妻戸を小楯に取つて。彼小男をねらひけり。牛若子は御覧じて。太刀抜きそばめ物あひを。少し隔てゝ待ち給ふ。熊坂も長刀かまへ。互にかゝるを待ちけるが。いらつて熊坂左足を蹈み。鉄壁も徹れと突く長刀を。はつしと打つて弓手へ越せば。追つ懸け透かさずこむ長刀に。ひらりと乗れば刃向になし。しさつて引けば馬手へ越すを。おつ取り直してちやうと切れば。中にて結ぶをほどく手に。却つて払へば飛びあがつて。其まゝ見えず形も失せて。こゝやかしこと尋ぬる処に。思ひもよらぬうしろより。具足の透間をちやうと切れば。こは如何にあの冠者に。切らるゝ事の腹立さよと。いへども天命の。運の極めぞ無念なる。 地「打物わざにて叶ふまじ。〳〵。手取にせんとて長刀投げ捨て。大手をひろげて。こゝの面廊かしこの詰りに。追つかけ追つ詰め取らんとすれども。陽炎稲妻水の月かや。姿は見れども手に取られず。 シテ「次第々々に重手は負ひぬ。 地「次第々々に重手は負ひぬ。猛き心。力も弱り弱り行きて。 シテ「此松が根の。 地「苔の露霜と。消えし昔の物語。末の世助けたび給へと。ゆふつけも告げ渡る。夜も白々と赤坂の。松陰に隠れけり。松陰にこそは隠れけれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著