冊子型のPDFファイルをダウンロードしていただけます。
プリントアウトの上、中央を山折りにし、端を綴じてご活用ください。

 

 

 

 

現在七面


ワキ 日蓮上人
シテ 里女


ワキ 前に同じ
シテ 蛇神

地は 甲斐
季は 春

ワキサシ「それ世尊の教法は。五時八教に配立し。権実二教に分てり。さる程に滅後の弘経も。正像末に次第して。今後五百歳の時なれば。時機に叶ふ此妙経を弘めつゝ。国土安全の勧めをなせし其甲斐の。身延の山に引き籠り。寂寞無人の扃の内には。読誦此経の声絶えず。一心三観の窓の前には。第一義天の月まとかなり。
地「尾上の風の音までも。〳〵。皆法の声ならずや。落滝つ瀬の響きも。唯懸河流潟の御声にて。鷲の御山もよそならず。八巻の法の花の紐。時知る風に立ち渡る。身の浮雲も晴れぬれば。心の月ぞさやかなる。〳〵。
ワキ詞「我法華修行の身なれば。読誦礼讃を怠る事なき所に。何くともなく女性の絶えず詣で候。今日も又来りて候はゞ。名を尋ねばやと思ひ候。
シテ次第「法の教へを身に受けて。〳〵。まことの道に入らうよ。
サシ「有難の霊地やな。漢土にては四明の洞。和朝にては我立つ杣と詠じけん。御山もいかでまさるべき。さて又大城波木井の河風に。波の立居もおのづから。随縁真如を顕はせり。
下歌「谷の戸出づる鶯も。法を唱ふる花の枝。
上歌「来ても見よ。身延の山の深雪だに。〳〵。春を迎へて消えぬれば。是も恵日の光りかと。思へば我作りにし罪科も。かくこそ消えめ頼もしやと。信心はいやましに。実に有難き御山かな。〳〵。
ワキ詞「あやしやな此山は。花より外は知る人もなき菴なるに。そもや女性の御身ながら。御経読誦の折々に。歩みを運び花水を仏に捧げ給ふ。さて御事はいかなる人にてましますぞ。
シテ詞「是は此あたりに住む者なるが。かく有難き御法に逢ふ事。盲亀の浮木優曇華の。花待ち得たる心地して。悦びの涙の露。斯かるをりしも縁を結び。後の世の闇を晴らさずは。又いつの世を松の戸の。明暮歩みを運びつゝ。上人に結縁をなすばかりなり。
ワキ「実に奇特なる信心かな。此法華経を保ちぬれば。若有聞法者。無一不成仏と説き給ひて。二乗闡提悪人女人おしなべて。成仏する事疑ひなし。
シテ「さては殊更有難や。
地「其名をだにもまだ聞かぬ。〳〵。御法を既に保つまで。いかで契りを結びけん。実に頼もしき折からや。猶も女の仏となる。謂を示しおはしませ。
ワキ詞「中々の事草木国土。悉皆成仏の法華経なれば。女人の助かりたる所をも語つて聞かせ候ふべし。
地クリ「そも〳〵法華経と云つぱ。釈尊久遠劫の其昔。初成道の時悟り得給ひし。妙法華経なり。
ワキサシ「然るに華厳の朝より。般若の夕べに至るまで。
地「抑止在懐し給ひて。種々の方便機に随ひ。終に一乗を説き給はねば。十界差別まち〳〵なり。
クセ「さる程に女人は。外面は菩薩に似て。内心は夜叉の如しと嫌はれし。其言の葉はもろ〳〵の。経の内にし陸奥の。安達が原の黒塚や。荒れたる宿のうれたきに。仮にも鬼のすだくなると。よみしも女の事とかや。かゝる憂き身の浮まん事。いつの時をか松山や。袖に涙の波越えて。作り重ねし罪科を。悔の八千度身をかこち。仏の御法の言の葉さへ。恨めしとのみ歎きけり。
ワキ「然るに此法華経は。
地「仏七十余歳にて。始めて説かせ給ひしに。そよや一味の法の雨。ひとしく注ぐ湿ひに。敗種の二乗闡提も。皆々同じ悟りを得。殊に文珠の教へにて。龍女は須臾に法を得て。此世ながらの身を捨てず。本の悟りの故郷に。立ち帰る有様や。錦の袂なるらん。
ロンギ地「此妙典の理を。説く唐糸の一筋に。仰ぎて保ち給へや。
シテ「有難の御事や。さては妾も隔てなき。御法の水を手に結び。絶えず苦しき三熱の。焰を早くまぬかれん。
地「そも三熱の苦しみを。まぬかるべしと宣ふは。さては御身は霊神の。仮に女となりたるや。
シテ「今は何をか包むべき。我は七面の池に。澄む月並の数知らぬ。年経たる蛇身なり。
地「さらば懺悔の其為めに。本の姿を見せ給へ。
シテ「恥かしながら報恩に。ありし姿を顕はさんと。
地「夕風も烈しく。立つや黒雲の。行方も早き雨の足。踏みとゞろかし鳴神の。稲光して冷ましき。音にまぎれて失せにけり。〳〵。(中入)
ワキ歌「かゝる不思議に逢ふ事も。〳〵。唯是れ法の力ぞと。心を澄ましひたぶるに。読誦をなして待ち居たり。〳〵。
地「あら不思議やな今までは。〳〵。妙に優なる女人と見えつるが。さも冷ましき大蛇となつて。日月の如くなる眼を開き。上人の高座を幾重ともなく。くる〳〵と引き纏ひ。慙愧懺悔の姿を顕はし。高座へ頭を差し上げて。瞻仰してこそ居たりけれ。
ワキ「其時上人御経を取り上げ。
地「其時上人御経を取り上げ。於須臾頃便成正覚と。高らかに称へ給へば。忽ち蛇身を変じつゝ。忽ち蛇身変じつゝ。如我等無異の身となれば。空には紫雲たなびき。四種の花降り。虚空に音楽聞え来て。宜禰が鼓にたぐふなる。報謝の舞の袂も。異香薫じて吹き送る。松の風颯々の。鈴の音も更け行く夜半の。月も霜も白和幣。振り上げて声澄むや。
シテ「謹上。
地「再拝。(神楽)
シテワカ「鷲の山。いかに澄みける月なれば。
地「入りての後も世を照らすらん。
シテ「うれしや妙経信受の功力。
地「うれしや妙経信受の功力。三身円満の妙体を受けて。和光同塵結縁の。姿を顕はし。垂跡示現して此山の。鎮守となつて。火難水難もろ〳〵の。難をのぞき。七福則生の願を満てしめ。世々を重ねて。衆生を広く済度せんと。約諾かたく申しつゝ。行方も白雲に立ちまぎれて。虚空に上らせ給ひけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

このコンテンツは国立国会図書館デジタルコレクションにおいて「インターネット公開(保護期間満了)」の記載のある書物により作成されています。
商用・非商用問わず、どなたでも自由にご利用いただけます。
当方へのご連絡も必要ありません。
コンテンツの取り扱いについては、国立国会図書館デジタルコレクションにおいて「インターネット公開(保護期間満了)」の記載のある書物の利用規約に準じます。
詳しくは、国立国会図書館のホームページをご覧ください。
国立国会図書館ウェブサイトからのコンテンツの転載