現在巴
シテ 巴 ツレ 寄手の兵 ワキ 源義仲 ツレ 今井兼平 ツレ 立衆 所 近江粟津 次第「淵は瀬となる飛鳥川。〳〵。早きや報なるらん。 義仲「これは木曽義仲なり。我いやしくも弓馬の家に生れ。君に仕ふると申せども。 シテ義仲「平家は既に世を取つて。〳〵。二十余年の春の花。秋の紅葉と栄えしに木曽の山風吹き下し。我身の運を開けしに。みだれがはしき世の中は。唯身の程ぞ恨なる。〳〵。 義仲「皆々かう来り候へ。如何に巴。これ迄参る事神妙なりさりながら。今日は義仲が最期にてあるぞ。いづ方へも落ち候へ。 シテ「これは仰にて候へども。君には片時も離れ参らせず候。今此際に御暇とは巴を未練者と思召し候か。 義仲「いや其儀にてはなし。義仲は最期迄女武者をつれたりと。他の人口も憚なれば。急いで落ち候へ。 シテ「御詞をかへすは恐なれども。御最期の際となりて。他の人口もいるまじや。同じ枕に討死して。二世の御供申すべし。 義仲「実に〳〵それはさる事なれども。誠の心あるならば。形見を持ちて古郷へ帰り。様かへ跡弔ひ申すべしと。 地「涙にむせび宣へども。理や古郷を。出でゝ越路の道迄も。巴は命ながらへて。今此際に成りぬれば。落ちよと仰せ候は。情なの御事や。何れの国の果迄も。命のあらん其程は。御供に参るべし情なの今の御諚やな。時刻うつりて叶ふまじ早々帰れ帰れとて。座敷を立たせおはしませば。力なくして巴は。行くも行かれぬ御名残。涙にむせぶばかりなり。〳〵。 ワキ立衆「よせかくる。汀の波のおのづから。音も烈しき。夕嵐。 シテ「抑これは木曽殿の御内に。其名を得たる女武者。今日を限の軍ぞと。寄せ来る勢をぞ。待ちかけたる。 地「敵はこれを見るよりも。〳〵。あれは巴か女武者。あますな洩すな討取れとて。我も〳〵と進みけり。 シテ「一騎当千の秘術をつくし。 地「一騎当千の秘術をつくし。ふせぎ戦ひ追払ひ。討たるゝ者は数を知らず。唯一人に斬りたてられて続く兵なかりけり。 ワキ「爰に武蔵の住人に。 地「恩田の八郎師重とて。巴に組まんと飛んでかゝるをわだがみつかんで引寄せて。首ねぢ切つてぞ捨てにける。 シテ「今は巴もこれ迄なり。 地「今は巴もこれ迄なりと長刀追つとり駒引きよせて。ゆらりと打ち乗り木曽の浅ぢふかけし中の。由なかりける契の末ぞと行方も知らず成りにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『四流対照 謡曲二百番 上巻』芳賀矢一 訂