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現在鵺

シテ 鵺
ワキ 頼政
ワキツレ 大臣
ワキツレ 猪の早太

所 山城禁中
時 五月

大臣「抑これは近衛の院に仕へ奉る臣下なり。君此間御悩にて渡らせ給ひ候。或人奏して曰く。東三条の林頭より。黒雲一むら飛び来り。御殿の上に覆へばおびえさせ給ふ由を奏す。昔冷泉院御悩にて渡らせ給ひし時。前の陸奥の守源義家君を守護し申すに。たとひ天魔鬼神なりとも。如何でか近づけ奉らんとて。弓の絃うち三度せられければ。御悩たちまち怠らせ給ふ其例に任せ。兵庫の頭源の頼政を召され。彼化生の者を射させらるべきとの宣旨を蒙り候間。頼政を召し出し。宣旨の趣申付けばやと存候。如何に頼政。
ワキ「御前に候。
大臣「これは宣旨にて候。君此程御悩に渡らせ給ひ候。或人奏して曰く。東三条の林頭より。黒雲一むら飛来り。御殿の上におほへば則ちおびえさせ給ふ由を申す。頼政を召し彼化生の者を射させらるべきとの御事にて候。
ワキ「宣旨畏つて承り候。さりながら。未だ目に見ぬ化生の者。射よとの宣旨こそ然るべからず候へ。
大臣「げに〳〵申す所はさる事なれども。伝へ聞く紀伊の国にも。化生を亡しゝ先例あり。
ワキ「実に〳〵聞けば紀の国に。山蜘蛛多く集り。〳〵。是朝敵の初と云へり。
大臣「今は国土も治りて。
ワキ「靡き従ふ時なれや。
地「万代の例にぞ引く桑の弓。〳〵。蓬のやしま治りて。国豊なる御代とてや民も栄ゆる時有りて。道々たれば家々の。風を伝ふる有り難や。〳〵。
ワキ「然れば天神七代。地神五代の世々迄も。
地「なゝしの雉も矢に当りて。天下を治めし。例とかや。
クセ「けいやう射術と伝へては其名を雲の上にあぐ。
ワキ「されば愛染明王は。
地「定の弓恵の矢にて悪魔を払ひ給へり。神功皇后新羅を従へ給ひし其昔。御弓の筈にて岩崛に異国の戎は日の本の狗なりと書きし文字の姿。今の世に残るこそ動なき国の例なれ。
大臣「如何に頼政。急ぎ我家に帰り用意仕り候へ。
ワキ「畏つて候。
一声ワキ「扨も頼政思はざる宣旨を蒙り。魚鱗の狩衣に重籐の弓持ちて。山鳥の羽にて矧いだる尖矢二つ取り添へ。頼みたる郎等には。
ツレ「遠江の国の住人猪の早太に。
ワキ「ほろの風切にて矧いだる矢を負はせて。唯一人ぞ召具したる。
地「かゝりければ夜も更けて。俄に落ち来る雨風の音。すはや時節と待ちかけたり。不思議や更け行く月影の。〳〵。
シテ「光をますかと見えつるが。
地「東三条の林頭よりも。黒雲一むら飛び来り御殿の上にぞ。かゝりける。
ワキ「其時頼政祈念して。
地「其時頼政祈念して。南無や八幡大菩薩。化生の真中射させてたべと。眼を開きよく〳〵見れば。頭は猿尾は蛇。足手は虎の如くなるが。啼く声鵺に似たりけり。尖矢つがつてよつ引きしぼり。化生の真中ひやうばつと射通され。起きつ転びつ御殿の上を。走り廻るが暫しもたまらず。逆様に落ちけるを猪早太つと寄り腰の刀に刺しとめければ。弓箭の家に頼政が勢誉めぬ人こそなかりけれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著『四流対照 謡曲二百番 上巻』芳賀矢一 訂

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