恋妻 別名 思妻・濱田・恋草
シテ 濱田の妻(帥の局) ツレ 濱田の侍女侍従 ワキ 濱田某 ツレ女詞「かやうに候者は。濱田の何某殿に仕へ申す者にて候。扨も憑み奉りし人の北の御方は。帥の局と申して。禁裏第一の美人にて候ひしが。今は濱田殿の妻と成り給ひて候。爰に又左衛門尉政長と申して。隠れなき色好の御座候が。或時帥の局。大覚寺殿へ御越の砌。政長殿垣間見給ひ。数数の玉章を送り申され候へども。もとより儘ならぬ御身なれば。さら〳〵御聞入もなく候程に。政長殿せむ方なき余りにや。情なくも濱田殿を讒し給ひ。流人の身となし給ひて候。北の御方の御歎き大方ならず。今ははや思ひの床に臥し給ひ。御命も危ふく見えさせ給ひて候。諒に御痛はしき御事にて候。今日は又雨中御徒然に御座候はん程に。参りて御様体をも伺ひ申し。御心を慰め申さばやと思ひ候。 シテ女「命だに心に叶ふものならば。何か別の。悲しかるべき。数々に思ひ思はずとひがたみ。身を知る雨は。降りぞまされる。 ツレ女「いかに申し上候。侍従が参りて候。 シテ「何。侍従と申すか。此方へ来り候へ。 ツレ「今日は物寂しき雨の中。御心地は何と御入り候ぞ。 シテ「さなきだにいとゞ苦しき枕の上に。窓打つ雨の音たかく。夢も結ばぬ思ひ寝の。つれなき命の惜しかるも。飽かで別れし我夫に。又も逢ふせの頼みかな。 ツレ詞「実に〳〵御歎き尤にて候さりながら。御心安く思し召れ候へ。殿は御身に誤りなき通りを。君聞し召し及ばせ給ひ。頓て御帰京有るべきとの御事なり。唯御心を取なほさせ給ひ。御薬をも用ゐ給はば。末はめでたう御対面にて候べし。 シテ「嬉しき人の詞かな。科なき夫の左遷の罪も。只吾ゆゑと思へば猶も。五の障り重きが上の。身の後の世も推はかられて。やる方もなき小車の。めぐりあひなば憂き事も。晴て行きなん心の月の。曇らぬ御影頼むなり。 地「実にやたのむの雁がねも。花を見捨てゝ行く空の。雲井遥に立隔つ。夫の音信もなき。世中ぞ悲しき。こぬ人をまつほの浦の夕なぎに。〳〵。焼くや藻汐のこがれ行く。身は浮舟の。よるべも涙の袖ぞいとなき。よしや暫しこそ。岩にせかるゝ滝川の。われても末の逢ふ瀬の頼みをかけて。ゆふしでの神の恵みの明らかに。照らさせ給へ我心。〳〵。 ワキ次第「かはる憂世もかはらざる。〳〵。妹背の川ぞ頼もしき。 詞「是は濱田の何某にて候。偖も我よしなき人の讒言により。遠流の身と成て候へども。我身に誤りなき旨を君聞し召し分けられ。此度御免を蒙り本領安堵し。唯今都へ登り候。急ぎ候程に。是ははや都に着きて候。是なる館が某が屋にて有りげに候。浅ましや我流人の身となれば。住みこし宿も荒れ果てて。庭も籬も蓬生の。昔語も思ひ出でられ。目も当られぬ有様にて候。 サシ「実にや風碧瓦を飄して。雨垣を摧き。池は水草に埋れて。蛙あらそひ梟も。所得顔に嘯きて。誠にけうとき有様かな。 詞「いかに誰か在る。濱田こそ此度御免を蒙りて罷り帰りたるぞ。此由申し候へ。 ツレ「や。是はまことか。目出度き御事にて候。急いで此由北の御方へ申さうずるにて候。いかに申し上候。殿の御帰りにて候。急いで御対面候へ。 シテ「何。殿の御帰りと申すか。あら嬉しや。いづくに御渡り候ぞ。 ワキ「なふ某こそ帰りて候へ。何とてかやうには御やつれ給ひ候ぞ。 シテ「実にや何事も。隔てぬ中といひながら。かく浅ましく衰へし。姿まみゆる愧かしさよ。さりながら君を思ひの涙の雨に。花の袂は朽ちぬとも。情の色はうつろはぬ。心の内を思ひ知れ。 ワキ詞「実に〳〵嬉しき仰かな。我も年月思ひの外に。つらき配所の身と成りしも。花の袂に置く露の。結ぶ契りの色かへぬ。心のとがと夕月の。 シテ「都隔つる遠島に。 ワキ「憂き春秋を。 シテ「ふるさとは。 地「浅茅が原と荒れ果てゝ。〳〵。昔忍ぶの軒端もる。月はけうとき影ながら。変らぬ色ぞ嬉しき。実にや逢ふ瀬は久方の。雲井とゞろく鳴神も。思ひし中はさけぬと。聞くにつけても頼もしや。〳〵。実にや臂上の蜥蜴色変ぜず。鹿葱花開けてさらに。しぼむ事なし。 シテサシ「彼唐の貞女とやらんは。両夫にまみえん事を恥ぢて。 地「思ひの淵に身をしづめ。桑を拾ひし女は夫の。不義を恨みて身を失ふ。 シテ「是皆直なる貞節の。 地「心を見する。例とかや。爰に武蔵守。師直と聞えし。いみじき人の在けるが。其頃出雲の国の守。塩冶の高貞といふ人の。妻は世上に隠れなき。美人の聞え在しかば。師直垣間見て。わりなく思ひ染衣の。色に出で行く恋心。物や思ふと人の問ふまで現なき。涙の床に起きもせず。寝もせで夜半をあかし潟。汀に求食る雁がねの。翅につけて玉章の。数かさなれど徒らに。ふみ返さるゝ丸木橋。落つる袂の涙こそ。恋しき人の記念なれと。思ひ返して返すだに。手や触れけむと思ふにぞ。我が文ながら。打もおかれずと。詠みやる言の葉にめでて。 シテ「只さよ衣とのみ。 地「返しければあだ人の。こはそも何と夕顔の。空めもやらでくり返す。心まどひて事とへば。さなきだに重きが上のさよ衣。我夫ならぬ。つまな重ねそと詠みし歌の心ぞと。聞くよりいとゞあくがれて。飛び立つのみか恋衣。情も知らぬ武士の。さがなき中ごとによりて。うき名高貞諸共に。身を捨し世語の。あはれ今更に知られたり。さりながらそれは昔のあだ人の。憂き身を捨てし物語。是は二度故郷に。帰り逢ふ瀬の身ぞ嬉し。 シテ「嬉しさを。何に譬へむ。夕暮の。月も晴れ行く思ひ妻。共にかたしく袂かな。 地「袂も袖も打薫る。古き軒端の梅の花。 シテ「今悦びの。 地「色はえて。立ち舞ふ姿も花やかに。雪をめぐらす小忌衣。かへす心も現なや。賤やしづ。(舞アリ) シテ「賤や賤。しづの小手巻。くり返し。 地「昔を今に返す袖かな。〳〵。返す袖哉。 シテ「返す嬉しき鸚鵡の袂。 地「返す嬉しき鸚鵡の袂。人の見るめもいとはぬ中の。思ひも今は荒磯。島津鳥憂を忘るゝ都の春の。月は昔にかはらぬ閨吹く松風に。憂世の夢も明方の空の。虚言なかりし誓の詞。そらごとなかりし誓の詞の。末頼もしき契かな。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『新謡曲百番』佐佐木信綱 校