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恋重荷

世阿弥作


ワキ 官人
狂言 下人
シテ 山科荘司


ワキ 前に同じ。
ツレ 女御
シテ 荘司の霊

地は 京都
季は 雑

ワキ詞「そも〳〵是は白河の院に仕へ奉る臣下なり。さても我君菊を御寵愛有つて。毎年あまたの菊を植ゑそだてられ候。又こゝに山科の荘司とて賤しき者の候。いつも菊の下葉を取らせられ候ふ間。申しつけばやと存じ候。又承り候へば。彼者いかなるをりにか。忝くも女御の御姿を拝み申し。勿体なくも恋と為りたる由承り候ふ間。彼者を召し出だし尋ねばやと存じ候。いかに誰かある。
狂言「御前に候。
ワキ「山科の荘司に此方へ来れと申し候へ。
狂言「畏つて候。いかに山科の荘司の渡り候ふか。
シテ詞「誰にて渡り候ふぞ。
狂言「いそぎ御参りあれとの御事にて候。
シテ「畏つて候。
ワキ「いかに荘司。何とて此間は御庭をば清めぬぞ。
シテ「さん候此程所労仕り候ひて。さて怠り申して候。
ワキ「尤にて候。さて汝は恋をするといふは誠か。
シテ「さやうの事をば何とて知しめされて候ふぞ。
ワキ「いや〳〵はや色にいでゝあるぞとよ。さる間此事を忝くも女御きこしめし及ばれ。急ぎ此荷を持ちて御庭を百度千度まはるならば。其間に御姿を拝ませ給ふべきとの御事なり。なんぼう有難き御諚にてはなきか。
シテ「何と此事をきこしめし及ばれ。其荷を持ちて御庭を百度千度まはれとかや。百度千度とは。百度も千度も持ちてめぐらば。其間に御姿を拝まれさせ給ふべきと候ふや。
ワキ「げによく心得て有るぞ。なんぼう有難き御事にてはなきか。
シテ「さらば其荷を御見せ候へ。
ワキ「此方へ来り候へ。是こそ恋の重荷よ。なんぼう美しき荷にてはなきか。
シテ「げに〳〵美しき荷にて候。たとひ叶はぬ業なりとも。仰せならばさこそあるべけれ。ましてや是は賤しき業。さのみは隔てじ名を聞くも。
地「重荷なりとも逢ふまでの。〳〵。恋の持夫に為らうよ。
シテ「誰踏みそめて恋の路。
地「ちまたに人の迷ふらん。
シテ「名もことわりや恋の重荷。
地「げに持ちかねる此身かな。
シテサシ「夫れ及びがたきは高き山。思ひの深きはわたづみの如し。
地「いづれ以てたやすからんや。げに心さへ軽き身の。塵の浮世にながらへて。よしなく物を思ふかな。
ロンギ地「思ひや少し慰むと。露のかごとを夕顔の。黄昏時も早過ぎぬ。恋の重荷を持つやらん。
シテ「重くとも。思ひは捨てじ唐国の。虎と思へば石にだに。立つ矢の有るぞかし。いかにも軽く持たうよ。
地「持つや荷前の運ぶなる。心ぞ君が為めを知る。重くとも心そへて。持てや〳〵下人。
シテ「よしとても。此身は軽し徒らに。恋の奴に為りはてゝ。亡き世なりと憂からじ。
地「なき世に為すもよしなやな。げには命ぞ唯頼め。
シテ「しめぢが腹立ちや。
地「よしなき恋を菅莚。伏して見れども寝らればこそ。苦しや独寝の。我手枕の肩替へて。持てども持たれぬ。そも恋は何の重荷ぞ。
シテ「あはれてふ。言だに無くは何をさて。恋の乱れの。束緒も絶えはてぬ。
地「よしや恋ひ死なん。報はゞそれぞ人心。乱恋になして。思ひ知らせ申さん。(中入)
ワキ詞「何と荘司が空しくなりたると申すか。言語道断近頃ふびんなる事にて候ふぞや。総じて恋と申す事は。高き賤しき隔てぬ事にて候へどもさりながら。彼者の恋の心を止むとの御方便にて。重荷を作つて上を綾羅錦繍を以て美しく包みて。いかにも軽げに見せて持たせなば。彼者思はんには。かほど軽げなる荷なれども。恋の叶ふまじき故に持たれぬぞと心得。恋の心や止まるべきとの御事にて候ふ処に。賤しき者のかなしさは。是を持ち御庭をめぐらば。御姿をまみえさせ給はん事を悦び。勢力を尽し候へども。もとより重荷なれば持たれぬ事を恨み。嘆きてかやうに身を失ひ候ふ事。かへす〴〵もふびんにこそ候へ。此由を申し上げうずるにて候。いかに申し上げ候。山科の荘司重荷を持ちかねて。御庭にて空しく為りて候。かやうの賤しき者の一念は恐ろしく候。何か苦しう候ふべき。そと御出であつて。彼者の姿を一目御覧ぜられ候へ。
ツレ「恋よ恋。我中空に為すな恋。恋には人の死なぬものかは。無慙の者の心やな。
ワキ詞「是はあまりに忝き御諚にて候。はや〳〵立たせおはしませ。
ツレ「いや立たんとすれば磐石に押されて。更に立つべきやうもなし。
地「報いは常の世の習ひ。
後ジテ「吉野川岩切り通し行く水の。音には立てじ恋ひ死にし。一念無量の鬼となるも。唯よしなやな誠なき。言縁妻の空だのめ。
地「げにもよしなき心かな。
シテ「浮寐のみ。三世の契の満ちてこそ。石の上にも座すといふに。我はよしなや逢ひがたき。巌の重荷持たるゝものか。あら恨めしや葛の葉の。玉だすき。畝傍の山の山守も。
地「さのみ重荷は持たればこそ。
シテ「重荷といふも思ひなり。
地「浅間の煙あさましの身や。衆合地獄の重き苦しみ。さて懲り給へや懲り給へ。
地「思ひの煙立ち別れ。いなばの山風吹き乱れ。恋路の闇に迷ふとも。跡弔はゞ其恨みは。霜か雪か霰か。終には跡も消えぬべし。是までぞ姫小松の。葉守の神となりて。千代の陰を守らんや。千代の陰をも守らん。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

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