項羽
世阿弥作 前 ワキ 草刈男 シテ 渡守 後 ワキ 前に同じ シテ 楚の項羽 ツレ 虞美人 地は 唐土 季は 七月 ワキ次第「詠め暮らして花にまた。〳〵。宿かる草を尋ねん。 詞「是は烏江の野辺の草刈にて候。今日も草を刈り唯今家路に帰り候。 下歌「野辺は錦の小萩原。刈萱交じる烏江野に。 上歌「草刈る男心なく。〳〵。花を刈るとや思草。家づとなれば色々の。草花の数を刈り持ちて。帰れば跡は秋暮れて。枯野にすだく虫の音も。花を惜しむか心あれ。〳〵。 詞「便船を待ち向へ越さうずるにて候。 シテサシ「蒼苔路滑にして僧寺に帰り。紅葉声乾いて牡鹿鳴くなる夕ま暮。心も澄める面白さよ。 一声「秋毎に。野分を船の追風にて。 地「荻の帆かくる露の玉。 ワキ詞「なふ〳〵其船に乗らうずるにて候。 シテ「あう召され候へ。さて船賃は候。 ワキ「我等如きの者の船賃参らせたる事はなく候。 シテ「船賃なくは此舟には叶ひ候ふまじ。 ワキ「さらば上の瀬へ廻らうずるにて候。 シテ「なふ〳〵道理は申しつ船に召され候へ。 ワキ「乗りおくれじと草刈は。もとの渚に立ち寄れば。 シテ「とく乗り給へとさし寄する。 地「露刈り込めて秋草の。〳〵。葉毎に影宿る。月をや船に乗せつらん。天の川。たな渡りして七夕の。たな渡りして七夕の。年に一夜は心せよ。秋風吹けば波の音。湊に近き海士小船。水音なしに行く船の。水馴棹をさゝうよや。水馴棹をさゝうよ。 シテ詞「船が着いて候ふ御上り候へ。 ワキ詞「御船恐れて候。 シテ「さて船賃は候。 ワキ「又船賃と仰せられ候ふよ。其為めにこそ向ひにて申し定めて候ふに。何とて聊爾なる事をば承り候ふぞ。 シテ「いや船賃と申せばとて。別の子細にても候はゞこそ。それ程多き草花をなど一本賜はり候はぬぞ。 ワキ「あら優しや。何れにても召され候へ。 シテ「さらば此花を賜はらうずるにて候。 ワキ「不思議やな是程多き草花の中に。何とて其花をば撰つて召され候ふぞ。 シテ「さん候是は美人草と申して。故有る花にて候。 ワキ「あら面白や美人草とは。何と申したる謂にて候ふぞ。 シテ「是は項羽の后虞氏と申せし人の。身を投げ空しくなり給ひしを。取り上げ土中に築き込め候へば。其塚より生ひ出でたる草なればとて。さて美人草とは申し候。 ワキ「さらば項羽高祖の戦ひの様を。御存じ候はゞそと御物語り候へ。 シテ「さらば語つて聞かせ申し候ふべし。 シテ「さても項羽高祖の戦ひ。七十余度に及ぶといへども。始めは項羽打ち勝ち給ひ。一度も高祖の利なかりしに。ある時項羽の兵心変りし。却つて項羽を狭めつゝ。四面に鬨の声をあぐれば。虞氏は思ひに堪へかねて。いかゞはせんと伏し給ふ。又望雲騅と云ふ馬は。一日に千里を駆くる名馬なれども。主の運命尽きぬれば。膝を折つて一足も行かず。其時項羽はちつとも騒がず。馬よりしづ〳〵とおり立つて。如何に呂馬童。我首取つて高祖に捧げ。名を揚げよやと呼ばゝれども。 地「呂馬童は恐れて近づかず。不覚なる者の心かな。是見よ後の世に。語り伝へよと言ひあへず。剣を抜いてあへなくも。我と我首を搔き落し。呂馬童に与へ其まゝ。此原の露と消えにけり。望雲騅は膝を折り。黄なる涙を流せば。さのみ語れば我心。昔に帰る身の果。今は包まじ我こそは。項羽が幽霊顕はれたり。跡弔ひてたび給へ。〳〵。(中入) ワキ歌「様々に。弔ふ法の声立てゝ。〳〵。波に浮寐の夜となく。昼とも分かぬ弔ひの。般若の船のおのづから。其纜を説く法の。心を静め声をあげ。一切有情。殺害三界不堕悪趣。 後ジテ「昔は月卿雲客うち囲み。今は樵歌野田の月。爛体霧深し古松下の陰。 地「苔紛々として旧名を埋む。 シテ「紫の雲間よこぎる出立は。 地「天つ乙女の調べかな。おの〳〵伎楽を奏しつゝ。〳〵。夢の黄楊櫛弾く琴琵琶の。四面に鬨の声を上ぐれば。又執心の攻め来るぞや。あら苦しの苦患やな。 ツレ「虞氏は思ひに堪へかねて。 地「虞氏は思ひに堪へかね給ひて。高楼に登りて。落つるはさながら涙の雨の。身を投げ空しくなり給へば。 シテ「項羽は虞氏が別れと我身の。 地「なり行く草葉の露諸共に。消え果てし悲しさ。思ひ出づれば。剣も鉾も皆投げ捨てゝ。身を焼くばかりに口惜しかりし。夢物語ぞ哀れなる。 シテ「あはれ苦しき瞋恚の焰。 地「あはれ苦しき瞋恚の焰の。立ち上りつゝ味方を見れば。高祖に属して寄せ来る波の。荒き声々聞けば腹立。いで物見せんと自ら駆け出で。敵を近づけ取つては投げ捨て。又は引き伏せ捻首とり〴〵に。恐ろしかりける勢なれども。運尽きぬれば烏江の野辺の。土中の塵とぞなりにける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著