厚婦
シテ 厚婦 ツレ 母 ツレ 国王 子方 太子 ワキ 臣下 狂言 臣下 所 天竺舎衛国 ワキ詞「是は天竺舎衛国の帝に仕へ奉る臣下也。偖も御世続の王子。いか成御事にてや候ひけん。無言の病疾を受けさせ給ひ。更に御声出させ給はず候。帝御歎きの余りに。上は梵天下は堅牢地神に至るまで。御祈誓ましませども。其験も御座なく候。爰に有験の医師奏して曰。いかにも端厳柔和成女の生肝を取。王子に進め奉らば。忽御声出べきよしを奏聞す。帝の叡慮斜ならず。急ぎ国中に高札を立べきよし勅諚にて候間。此由を申付ばやと存候。いかに誰か有。 ヲカシ「御前に候。 ワキ「急いで国中に高札を立候へ。 ヲカシ「畏て候。 次第、シテ女「濡て乾かぬ我袖の。〳〵。人こそしらねうきおもひ。木の実を取に出ふよ。 サシ「是は此山陰にすむ。厚婦と申女にて候。 詞「偖も妾は老母を持て候が。家貧しければ養ひ難く。おとゞひ共に山に登り。このみを拾ひて孚み候。 詞「けふも又木の実を取に出候。不思議や是に高札の候。立より見ばやと存候。何々。王子の御病気に付。端厳柔和成女人の生肝を。速かに取捧奉る者あらば。望は心に任すべしと也。や。急度思ひ出して候。わらは身を売。此価ひを母に授け申さんと。 歌「思ふ心をたよりにて。帝都にはやく参りけり。〳〵。 詞「いかに奏聞申べき事の候。 ヲカシ「奏聞とはいか成者ぞ。 シテ「是は高札の面に付て参りて候。此よし御申有て給はり候へ。(シカ〴〵) ワキ「何高札に任せ。参りたるとは汝が事か。 シテ「さん候。わらはが事にて候。 ワキ「偖生肝を奉るべきか。 シテ「中々の事。わらはが望みを叶へたまはゞ。生肝を奉り候べし。 ワキ「本来望みは心に任すべしとの勅諚也。偖命にかゑん望みとは。いか成事にて有やらん。 シテ「いや望みと申は余の儀にあらず。老母を一人持て候。此代を母に与へ申度候。 ワキ「偖は親孝行の為にて候な。あら誮の者や候。此由奏聞申べし。暫く待候へ。いかに貧女。上よりの宣旨には。汝親に孝深く君にも忠あり。寔に世に類なき者也。汝がなき跡をば。管絃講にて御弔ひ被成。又望のごとく価ひをも下され。其上母をも世に御立あるべきとの勅諚也。心安く思ひ候へ。 シテ「荒有難や候。今は早思ひ残す事もなく候。さりながら。片時の御暇を給はり候へ。母に今一度対面申たく候。 ワキ「安き間の事。片時の暇ならば得させ候べし。はやばや参り候へ。 シテ「荒嬉しや候。 同「帰る家路の別れをば。〳〵。何をつゝまんから衣。もるゝ涙に目もくれて。それ共更にみえわかぬ。草の庵に帰りけり。〳〵。 母、サシ「白雲山を帯て。人煙を隔つれば。訪ひ来る人もなく。蒼苔露深ふして。洞門に茂れども。憐み給ふ人もなし。実や人の親の。子を思ふ程。子は親を思はず。荒心許なや候。 シテ詞「いかに母上のましますか。厚婦が帰て候。 母詞「何とて遅く帰りたるぞ。わらは御身を待わびたり。世に人を待ほどくるしき物はなきに。ましてや是はおもひ子の。母が心をおもひやれ。 詞「偖今までは焉くに有けるぞ。 シテ詞「さん候。山路に踏迷ひ行方を忘れ。さて遅はりて候。又かゝる目出度物の候程に。取て帰候。是々御覧候へ。 母「荒嬉しや候。是も偏に御身の孝を感じ。天のあたへ給ふ所也。 同「是に付ても厚祇が尋兼てや居たるならん。荒心元なやと。打詫給ふ御有様。厚婦は心苦しくて。忍び涙は塞敢ず。 ワキカヽル「角て時刻も移り行ば。貧女遅しと官人は。厚婦が扉に声立て。はや〴〵出給へとよ。 母「母は思ひの外なれば。唯茫然とあきれ居たり。 シテ「厚婦はつつめど。漏る涙にせかれつゝ。声をもたてず泣居たり。 同「母は涙の下よりも。〳〵。思ひ合せしかねごと。齢ひ傾く母が身を。養はん其為に。身を売り給ふか恨めしや。縦ひ珍宝積たりと。子には争か増るべき。誠孝行たるべくば。老たる母にはつかへもせで。かく憂目をば見せ給ふ。千金もよしなしと。倒れ臥てぞ泣ゐたる。〳〵。 クリ、地「実や碧緑の紺青の髪筋も。終には所在の芝にまとひ。荘厳柔和の姿も。又路辺の。芥骨となる。 サシ「生ずる者は必ず滅す。釈尊も末栴檀の煙をまぬかれず。 地、同「楽みつき悲み来る。天人も猶五衰の日に逢り。 シテ「増てや人身を受ながら。生死の別れ思はざらん。 地、同「焼野の雉子夜の鶴。梁の燕も。子には別れを。催ほせり。 クセ「況んや人の親として。子を思ふ事浅からず。仮初に別れしだに。待遠に思ひしに。又何の世に逢べき。老たる母を残し置。先だち給ふ御身は。恨めしや今日計。明日はたれにか問るべき。それのみならず。厚祇が。山よりかへりて。歎かん事も不便なり。一方ならぬおもひに。沈む事の悲しやと。暫し消いり給へば。 シテ「その時なみだながらに厚婦は。母をいさめ申やう。 同「是とても前世の。宿業とおぼしめし。さのみ歎かせ給ふなよ。今あひ別れ申共。かならずながき浄土にて。廻り逢べし。生死不定のさかひなれば。何に愛着の留まらんと。種々に教訓申せども。母は兎角わきまへず。臥まろびつゝ泣ければ。さしもに猛き武士もいとどあわれを催して。皆涙をぞ流しける。 ワキカヽル「既に夕日も西に傾けば。歎きは尽ぬ別れとて。 詞「情なくも武士は。厚婦を引立つれて行。 母、カヽル「母は余りの悲しさに。袂にすがり引とむれば。 同「あらけなき武士の。数多をりあひ引放せば。さすが此身は老木にて。弱々と倒れ臥ば。官人は厚婦を。急帝都につれて行。〳〵。 ワキ詞「いかに奏聞申候。生肝をとらん為。美女を召つれ参内仕候。とう〳〵南殿に御幸あらふずるにて候。 大臣「厚婦を内裏に召れければ。帝は太子を御伴ひ。南殿に御幸なし給ふ。臣下卿相諸共に。厚婦を叡覧に備へ奉れば。 ワキ「誠に優成其姿。 シテ「桂の眉は玉をつらぬき。 ワキ「厚々たる匂ひ色深く。 シテ「愁ひを催す其有様。 同「君も哀と思召。龍顔に御涙を。浮べさせ給へば。袖を絞らぬ人はなし。〳〵。 ワキ「角て時刻もうつるとて。武士勅を承り。袂に利剣を忍ばせ。 詞「厚婦を取て引臥る。 太子詞「やあ。かゝる賢女を何とて科なき罪には沈るぞ。はや〴〵其害を。ゆるすべしと宣へば。 同「帝を始奉り。〳〵。是は不思議の御事と。御悦びは限りなし。 地「かゝる賢女もありけるよと。君もゑいかんあさからず。后に備え申せと。御装束を参らする。(シカ〴〵) 同「御悦の御盃。〳〵。廻る長柄の数添て。返す袂も匂やかに。 シテ「空吹風も静かにて。 地「草も木も靡く。御代とかや。(序舞) ワカ、シテ「有難や。神明仏陀の御加護にや。閉口たりし王子も。御声を出させ給ふ事。是孝行の。威徳也。 キリ同「既に舞楽も時されば。〳〵。玉の御輿をはやめ給ひ。老母を迎ひとり。仮冊申つゝ。偖厚祇をば臣下と定めおはしませば。民も豊かに天下も治まり。尽せぬ御代こそ目出たけれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『宴曲十七帖 謡曲末百番』国書刊行会 編