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豊公謡曲 高野詣

シテ 豊太閤の母の霊
子方 豊太閤
ワキ 豊臣家臣
ワキツレ 従者

所 紀伊高野山
時 春

ワキ次第「花を手向の山の名の。〳〵。高野の奥を尋ねん。
詞「抑是は太閤の御所に仕へ奉る者なり。さても此御所三韓御退治のため。九州に御在国の砌。北堂御不例以の外なるよし聞し召され。今一たびの御対面と思し召し。時日を移さず御急ぎなされ候へども。無常の習ひにて空しくなり給ひぬ。力及ばせ給はず御歌の候ひしは。亡き人の形見の髪を手にふれて。包むに余る涙悲しもと遊ばされ。御葬礼を御つとめ有つて。重ねて御下国なされ。三韓御退治にて。文禄二年八月の末還御候。春立ち返り既に三回に当り候へば。高野山に御登りなされ。いよ〳〵御菩提をも弔らはせ給ふべきにて候ふ間。御供仕り候。
道行「小車に法の門出の遥々と。〳〵。かへり都に立つ雲の。迷はぬ道は世の中の。よし足曳の大和路や。末を急ぎて紀の国の。高野の山に着きにけり。〳〵。
詞「御急ぎ候ふ程に。高野の山に御着きにて候。北堂春岩大禅定尼の御位牌所に御安座ありて。御焼香なさるべく候。御車を寄せ候へ。
シテサシ「人の親の心は闇にあらねども。子を思ふ道に迷ふなる。無明塵労即是菩提。大道本来所染なし。白雲何ぞ心あらん。
歌「暁を高野の山に待つ程や。〳〵。苔の下にも有明の。月の光は春の夜の。花の木陰に若く物は。亡き身の果といひながら。名は残る世の習ひかな。〳〵。
ワキカヽル「春の夜の夢の浮橋とだえして。峰に残れる暁の。ほのかに見ゆる面影は。それかあらぬか思ほえず。
シテ詞「反魂香にあらねども。花の匂ひに誘はれて。谷より出づる鶯の。声こそ道のしるべなれ。
ワキカヽル「あら不思議や。月の夜陰に老尼の姿の見えけるぞや。こゝはもとより女人結界の山なるに。不浄の身にてまう登る。故を如何にと答ふべし。
シテ詞「現にもあらぬ身なれば津の国の。
ワキ「難波の浦のよしあしの。二つの道も。
シテ「一筋に。
地「頼む仏の御心に。〳〵。かゝる高野の山雲の。浮世の中の罪科を。ゆるし給ふぞ有難き。〳〵。
ワキ詞「簾中近う参り此処の謂れ委しく語り候へ。
クセ地「抑金剛峯寺と申すは。帝都を去つて二百里。郷里を離れて無人声。八葉の峰八の谷。諸行無常の花をだも。晴嵐枝をならさず。
シテサシ「生滅々已の月をさへ。白雲影を隠さず。おのづから静なりける嶺の松。弘法大師其昔。入唐ありし折からに。薩埵にうけて仏法も。東漸なりと日の本に。三鈷を投げて此行方。とまらん山を我があらん。伽藍と定め申さんと。遥の空に投げ給ふ。
クセ「三鈷は落ちて此嶺の。梢にかゝる其故に。三鈷の松とは申すとかや。されば星霜ふりにたる。大塔ことに金堂。軒端かたぶき崩るゝを。悲しみ給ひ豊臣の。御代の始めにたらちねの。逆修のためにいらかをも。上人之を造営す。
シテ「猶陰深き奥の院。
地「古木怪巌苔むして。連なる道の右左。石塔数もいさ知らず。かゝげ添へたるともし火の。かげに晨鐘夕梵の。心耳をすます霊地なり。
ロンギ地「げにや老尼の物語。聞くにつけてもなつかしき。住家を知らせ給へや。
シテ「かゝる貴き此山の。浄土に登り住む事は。賢き人の孝行の。道に引かるゝ心かな。
地「そもや浮世に亡き跡は。色即是空なるものを。何の残りて呼子鳥の。声をかはすも山中に。覚束なくぞ覚ゆる。
シテ「天が下。治むる雲の上人の。かゝる山路によぢのぼる。心の程の嬉しさを。深山隠れの老木の桜。花に顕れ出づるぞや。
地「今の宣ふ言の葉は。生ふし立てたる我行方。千代もと祈るたらちねの。春岩にてましますか。
シテ「其原や〳〵。伏屋に生ふる箒木の。ありとは見えてあはれ世の。昔に帰る心地して。
地「袖の涙は石の上。ふるや雨夜の春の月。霞にまぎれ失せにけり。〳〵。
ワキ詞「如何に誰かある。
ツレ「御前に候。
ワキ「大相国今夜不思議の御霊夢を御覧ぜられて候ふ間。此寺の衆徒を召し出し。春岩の御菩提を。いよ〳〵弔はせ申さうずるにて候。
ツレ「畏つて候。
歌「暁の尾上の鐘の一声に。〳〵。僧は仰に随ひて。清巌山に参りつゝ。座具を述べ香を焼き。南無尊霊春岩大禅尼。一見阿字五逆消滅。真言得果即身成仏。
後ジテ「あら有難の御弔ひや。此御経の功力により。いよ〳〵五障の苦を離れて。只今夢に顕はれけるぞや。
ワキ「それながら見しに変れる御容。七宝荘厳の玉のかんざし。忍辱慈悲の御衣。色も妙なる御声の内に。仏言を唱へ出で給ふ。是や誠に即身成仏。疑ひもなき有様なり。
シテ「是れ孝行の道により。微妙の法を得る事の。浅からざりける志。いかで報謝をつくすべき。
ワキ「見ればげに。歌舞の菩薩となり給ふ。遊戯神通の事なれば。そのかみ世尊の御前にて。阿難座して歌へば。
シテ「迦葉立ちて舞ふ。
ワキ「其音楽の一ふしを。只今かなで見せ給へ。
地「さては昔在霊山の。妙なる法をひるがへす。袂ゆたかに立ち舞へる。舞楽の遊びは面白や。(舞)
地「思へば過去の宿縁なれや。〳〵。ふさんかせんきう因縁の。善根こゝに白雪の。花を散らせる高野山。瑞雲たなびき。霊香四方に薫じつゝ。笙笛琴箜篌琵琶鐃銅鈸。思ひ〳〵の声はして。廿五の菩薩只今こゝに影向なりて。五色の旗は霞に棚引き。玉の御輿は日にかゝやきて。来り迎ふる此寺や。霊山会場も目前たり。此楽しみを譲り置く。君が齢は万歳の。守護を加ふる志。只孝行の道による。〳〵。行末こそは久しけれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著

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