高野物狂
前 シテ 高師四郎 狂言 春満使者 後 ワキ 高野山住僧 シテ 前に同じ 子方 平松春満 地は 前は常陸 後は紀伊 季は 春 シテ次第「陰たのむべき行末や。〳〵。若木の花を育てん。 詞「是は常陸の国の住人。平松殿に仕へ申す。高師の四郎と申す者にて候。さても頼み奉る平松殿は。去年の秋の頃空しくならせ給ひて候。又春満殿と申して御子息の一人御座候。彼御方をば某に預け置かれ候ふ由御遺言にて候ふ程に。片時も離れ申さず候。又あたり近き観音寺と申す処に。平松殿の御位牌を立て置き申して候。今日御命日にて候ふ間。御寺に参り焼香せばやと存じ候。 サシ「昔在霊山名法華。今在西方名阿弥陀。娑婆示現観世音。三世利益同一体。げに有難き悲願かな。 地「慈眼視衆生悉く。〳〵。誓ひ普き日の影の。曇りなき世の御恵み。後の世かけて頼むなり。〳〵。 狂言「春満殿の御文にて候ふ御覧候へ。 シテ詞「あら思ひ寄らずや。まづ〳〵御文を見うずるにて候。夫れ受けがたき人身を受け。逢ひがたき如来の教法に逢ふ事。闇夜の灯河水の渡に。船得たる心地して。我と覚さん夢の世に。今を捨てずは徒に。又三途にも帰らん事。歎きても猶余りあり。此生に此身を浮めずは。いつの時をか思ひ見ん。然るに一子出家すれば。七世の父母成仏するなれば。此身を捨てゝ無為に入らば。別れし父母の御事のみか。生々の親を助けん事。執心の大慶是に如かじと。思ひ切りつゝ家を出で。修行の道に趣くなり。父母に別れし其後は。唯お事をこそひたすらに。父とも母とも頼みつるに。かくとも申さで別るゝ事。乳房を出でし父母に。二度別るゝ心地して。御名残こそ惜しう候へ。かまひて尋ね給ふなよ。三年が内には必ず〳〵。身の行くへをも知らせ申さん。唯名残こそ惜しう候へ。墨衣思ひ立てどもさすが世を。出づる名残の袖はぬれけりと。 下歌地「遊ばされたる言の葉の。若木の花を先立てゝ。身の為る果は如何ならん。 上歌「恨めしの御事や。〳〵。たとひ世を捨て給ふとも。三世の道の末あらば。いづくまでも御供に。などや伴ひ給はぬぞ。今は散りゆく花守の。頼む木陰も嵐吹く。行方はいづく雲水の。跡を慕ひて何くとも。知らぬ道にぞ出でにける。〳〵。(中入) ワキ次第「昨日重ねし花の袖。〳〵。今日墨染の袂かな。 詞「是は高野山の住僧にて候。又是に御座候ふ稚き人は。いづくとも知らず愚僧を御頼み候ふ間。師弟の契約をなし申して候。又今日は三鈷の松に御供申し。慰め申さばやと存じ候。 後ジテ一声「薄墨に書く玉章と見ゆるかな。霞める空に帰る雁の。翅に附けしは蘇武が文。それは故郷の旅衣。君を忘れぬ忠勤の心。君辺に帰りし雁札ぞかし。我も主君の御行方。うはの空なる御跡を。尋ねや逢ふと遥々の。陸奥紙に書き送る。文こそ君の形見なれ。あら覚束なの御身の行方やな。呼子鳥。誘はれし。花の行方を尋ねつゝ。 地「風狂じたる心かな。 シテ「肌身に添ふる此文を。 地「懐紙と人や見ん。朝もよい。紀の関越えて名に聞きし。〳〵。是や高野の山深み。茂みの木陰分け行けば。こゝも筑波の山やらんと。我かたを思ひ出の。昔ゆかしき心にも。猶わが主君恋しやと。夕山松の葉もる道を。いざや狂ひ上らん。いざ〳〵狂ひ上らん。立ちのぼる雲路の。〳〵。こゝはいづく高野山に。来て見れば尊やな。或は念仏称名の声々。或は鳧鐘鈴の声。耳に染み心すみて。物狂の。狂ひさむる心や。 シテ「いつかさて。 地「いつかさて。尋ぬる人を道の辺の。便りの桜をりあらば。などか主君に逢はざらんと。懇に祈念して。三鈷の松のもとに。立ち寄りて休まん。風立ち寄りて休まん。 シテ詞「如何に申し候。三鈷の松とは此木の事にて候ふか。 ワキ詞「さん候三鈷の松とは此木の事にて候。不思議やな姿を見れば異形なる有様。そも御身は何くより来る人ぞ。 シテ「げによく御覧ぜられて候。是は放下にて候。歌をうたひ放埓したる狂者にて候。 ワキ「さやうの狂者なれば此高野の内へは叶ひ候ふまじ。人に咎められぬ先にとう〳〵出で候へ。 シテ「是は御利益ともなき仰せかな。人を尋ねて此山に来るを。只帰れとは御情なや。 カヽル「人をも尋ね一つは又。かゝる結界清浄の地に。入り定まれる高野の山を。帰り出でよの御説教。心得ずこそ候へとよ。 ワキ「けうがる事を申すものかな。入り定まれる高野の山とは。言中の響耳に留まれり。 シテ「入り定まれるとは入定よなふ。忝くも高野の内にて。入定と申す事は。げにも〳〵憚り多き詞やらん去りながら。かく世を遁れ身を捨てゝ。高野に参るは順義ならずや。 ワキ「さてはお事は人をば尋ねず。我と其身を捨人か。 シテ「いや尋ぬる主君も捨人なれば。出家の御供申さんため。我も憂身を捨人なり。 ワキ「さやうの出家の望ならば。何とて様をば変へざるぞ。 シテ「いや姿を改めぬこそ。発身初縁の形なれ。 ワキ「発身初縁の義ならば。人仏不二の道は知れりや。 シテ「事新しき仰せかな。忝くも大師の御身は。内心三昧目前なり。是正しくも人仏不二。 ワキ「あふ殊勝なりげにも大師ぞ。生有りながら生死涅槃に。 シテ「入り定まれる高野の奥。 ワキ「今此山にまのあたり。 シテ「昔薩埵の印明を授かり。慈氏の下生を待ち給ふ事。人仏不二の妙体なり。 地「大師の待ち給ふは。慈尊三会の暁。我は三世の主君を尋ねて。此高野山に参りたり。 クリ「抑此高野山と申すは。帝城を去つて二百里。旧里を離れて無人声。 サシ「然れば末世の隠処として。結界清浄の道場たり。 地「中にも此三鈷の松は。大同二年の御帰朝以前に。我法成就円満の地の。しるしに残り留まれとて。三鈷を投げさせ給ひしに。光りと共に飛び来り。此松が枝の梢に留まる。 シテ「然れば諸木の中に分きて。 地「松に留まる其ためし。千代万代の末かけて。久しかれとの御方便。委しく旧記にあらはれたり。 クセ「さればにや。真如平等の松風は。八葉の峰を静に吹き渡り。法性随縁の月の影は。八つの谷に曇らずして。誠に三会の暁を待つ如くなり。然れば即身成仏の相をあらはし。入定の地を示しつゝ。深深たる奥の院。深山烏の声聞きて。飛花落葉の嵐風まで。無常観念の粧ひ。是とても又常住の。皆令仏道円覚の相をなし給ふ。 シテ「然れば時うつり事去るや。 地「四季をり〳〵のおのづから。光陰惜しむべし。時人を待たざるに。貴賤群集の雲霞。かゝる高野の山深み。谷嶺の。風常楽の夢さめ。法の称名妙音の。心耳に残り満ち〳〵て。唱へ行ふ聞法の。声は高野にて。静なる霊地なりけり。 シテ「尋ね来し。霞の奥の高野山。 地「時しも春の。 シテ「花壇上。 地「花壇上。月伝法院。紅葉三宝院よりも猶深く。雪は奥の院。かれよりも是よりも。いつも常磐の三鈷の松陰に立ち。寄る春の。風狂じたる物狂ひ〳〵。あら忘れや。 シテ「高野の内にては。 地「高野の内にては。謡ひ狂はぬ御制戒を。忘れて狂ひたり。ゆるさせ給へ御聖。〳〵。 子詞「如何に御聖に申すべき事の候。 ワキ「何事にて候ふぞ。 子「これなる物狂をよく〳〵見候へば。故郷に留め置きたるめのとにて候。 シテ「不思議やなあれにましますは主君春満殿候か。御跡をはる〴〵尋ね参りてこそ候へ。何とて御供には召し具せられ候はぬぞ。あら御情なや候。 ワキ「是は不思議の機縁かな。さて御事の国はいづくぞや。 シテ「常陸の国筑波の里。 ワキ「父の名字は。 子「平松の何がし。 ワキ「又お事の名をば。 シテ「高師の四郎。 ワキ「いづれも誠か。 二人「さん候。 地「三世の契り朽せねば。是まで尋ね紀の国や。高野の山の陰頼む。主君に逢ふぞ嬉しき。本より誠の狂気ならず。主君の為めなれば。やがて元結押し切りて。濃き墨染に身をやつし。主君と同じ捨人の。御供申す志。げに主従の道とかや。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著