小督 古名 仲国
禅竹作 前 ワキ 勅使 シテ 弾正大弼仲国 後 ツレ 小督局 トモ 侍女 ワキ 前に同じ 地は 山城 季は 八月 ワキ詞「これは高倉の院に仕へ奉る臣下なり。さても小督の局と申して。君の御寵愛の御座候。中宮は又まさしき相国の御息女なれば。世の憚りをおぼしめしけるか。小督の局暮に失せ給ひて候。君の御歎き限りなし。昼は夜の大殿に入り給ひ。夜は又南殿の床に明かさせ給ひ候ふ処に。小督の局の御行方。嵯峨野のかたに御座候ふよし聞しめし及ばれ。急ぎ弾正の大弼仲国を召して。小督の局の御ゆくへを。尋ねて参れとの宣旨にまかせ。唯今仲国が私宅へと急ぎ候。いかに仲国の渡り候ふか。 シテ詞「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「是は宣旨にて候。さても小督の局の御ゆくへ。嵯峨野の方に御座候ふ由聞しめし及ばせ給ひ。いそぎ尋ね出で此御書をあたへよとの宣旨にて候。 シテ「宣旨畏つて承り候。さて嵯峨にては如何やうなる処とか申し候。 ワキ「嵯峨にては唯片折戸したる所とこそ聞しめされて候へ。 シテ「左様の賤が屋には片折戸と申す物の候。今夜は八月十五夜にて候ふ間。琴弾き給はぬ事あらじ。小督の局の御調べをば。よく聞き知りて候ふ間。御心安く思召せと。委しく申し上げゝれば。 ワキ「此よし奏聞申しければ。御感のあまり忝くも。寮の御馬を賜はるなり。 シテ「時の面目畏つて。 地「やがて出づるや秋の夜の。〳〵。月毛の駒よ心して。雲井に翔れ時の間も。いそぐ心の行方かな。〳〵。(中入) ツレサシ「げにや一樹の陰に宿り。一河の流れを汲む事も。皆これ他生の縁ぞかし。 ツレトモ「あからさまなる事ながら。馴れて程ふる軒の草。忍ぶたよりに賤の女の。目に触れなるゝ世のならひ。飽かぬは人の心かな。 下歌地「いざ〳〵さらば琴のねに。立てゝも忍ぶ此思ひ。 上歌「せめてや暫し慰むと。〳〵。かきなす琴のおのづから。秋風にたぐへば。なく虫の声も悲しみの。秋や恨むる恋や憂き。何をかくねる女郎花。我も浮世のさがの身ぞ。人に語るな。此有様も恥かしや。 シテ「あら面白の折からやな。三五夜中の新月の色。二千里の外も遠からぬ。叡慮かしこき勅を受けて。心もいさむ駒の足なみ。夜の歩みぞ心せよ。牡鹿なく。此山里とながめける。 地「嵯峨野の方の秋の空。さこそ心も澄みわたる。片折戸をしるべにて。名月に鞭を挙げて。駒を早め急がん。 シテ「賤が家居の仮なれど。 地「もしやと思ひこゝかしこに。駒を駆け寄せ駆け寄せて。ひかへ〳〵聞けども。琴弾く人は無かりけり。月にやあくがれ出で給ふと。法輪に参れば。琴こそ聞え来にけれ。峰の嵐か松風か。それかあらぬか。尋ぬる人の琴の音か。楽は何ぞと聞きたれば。夫を想ひて恋ふる名の。想夫恋なるぞうれしき。 シテ詞「疑ひもなき小督の局の御しらべにて候。やがて案内を申さうずるにて候。如何に此戸あけさせ給へ。 ツレ「誰そや門に人音のするは。心得て聞き候へ。 トモ「中々にとかく忍ばゝあしかりなんと。まづ此扃を押しひらく。 シテ「門さゝれては叶ふまじと扃を押さへ。是は宣旨の御使。仲国これまで参りたり。そのよし申し給ふべし。 ツレ「現なやかゝるいやしき賤が屋に。何の宣旨の候ふべき。門違へにてましますか。 シテ「いや如何に包ませ給ふとも。人目づゝみも洩れ出づる。袖の涙の玉琴の。調べは隠れなきものを。 ツレ「げに恥かしや仲国は。殿上の御遊の折々は。 シテ「笛仕れと召し出だされて。 ツレ「馴れし雲井の月もかはらず。人も訪ひ来てあひにあふ。その糸竹の夜の声。 地「ひそかに伝へ申せとの。勅諚をば何とさは。隔て給ふや中垣の。葎が下によしさらば。今宵は片敷の。袖ふれて月に明かさん。 地「処を知るも嵯峨の山。〳〵。御幸絶えにし跡ながら。千代の古道たどり来し。ゆくへも君の恵ぞと。深き情の色香をも。知る人のみぞ花鳥の。音にだに立てよ東屋の。あるじはいさ知らず。調べは隠れよもあらじ。 トモ詞「仲国御目に懸らざらん程は帰るまじきとて。あの柴垣の本に露にしをれて御入り候。勅諚と申し痛はしさといひ。何とか忍ばせ給ふべき。こなたへや入れ参らせ候はん。 ツレ詞「げに〳〵我も左様には思へども。余りの事の心乱れに。身の置所も知らねども。さらばこなたへと申し候へ。 トモ「さらば此方へ御入り候へ。 シテ詞「畏つて候。勅諚に任せ是まで参りて候。さてもかやうにならせ給ひて後は。玉体おとろへ叡慮なやましく見えさせ給ひて候。せめての御事に御行方を尋ねて参れとの宣旨を蒙り。辱くも御書を賜はつて是まで持ちて参りて候。恐れながら直の御返事を賜はりて。奏し申し候はん。 ツレ「もとよりも辱かりし御恵み。及びなき身の行方までも。頼む心の水茎の。跡さへふかき御情。 地「かはらぬ影は雲井より。猶残る身の露の世を。憚りの心にも。訪ふこそ涙なりけれ。 地クリ「げにや訪はれてぞ。身に白玉のおのづから。ながらへて憂き年月も。嬉しかりける住居かな。 ツレサシ「たとへを知るも数ならぬ。身には及ばぬ事なれども。 地「妹背の道は隔てなき。かの漢王の其昔。甘泉殿の夜の思ひ。たえぬ心や胸の火の。煙に残る面影も。 ツレ「見しは程なきあはれの色。 地「なか〳〵なりし契りかな。 クセ「唐帝の古へも。驪山宮の私語。洩れし始めを尋ぬるに。あだなる露の浅茅生や。袖に朽ちにし秋の霜。忘れぬ夢を訪ふ嵐の。風のつてまで。身にしめる心なりけり。 ツレ「人の国までとぶらひの。 地「哀を知れば常ならで。なき世を思ひのかず〳〵に。余りわりなき恋心。身を砕きてもいやましの。恋慕の乱れなるとかや。是はさすがに同じ世の。頼みも有明の。月の都の外までも。叡慮にかゝる御恵み。いとも畏き勅なれば。宿はと問はれて。無しとはいかゞ答へん。 ロンギシテ「是までなりやさらばとて。直の御返事たまはり。御暇申し立ち出づる。 ツレ「月に訪ふ。宿りは仮の露の世に。これや限りの御使ひ。思出の名残ぞと。慕ひて落つる涙かな。 地「涙もよしや星合の。今は稀なる中なりと。 ツレ「終に逢ふ瀬は。 地「程あらじ。迎への舟車の。やがてこそ参らめと。いへど名残の心とて。 シテ「酒宴をなして糸竹の。 地「声すみわたる月夜かな。 シテ「月夜よし。(男舞) ワカ「木枯に。吹きあはすめる笛の音を。 地「引きとゞむべき言の葉もなし。言の葉もなし。〳〵。 シテ「言の葉もなき君の御心。 地「我等が身までも物思ひに。立ち舞ふべくもあらぬ心。今は却りて嬉しさを。何に包まん唐衣ゆたかに。袖打ち合はせ御暇申し。いそぐ心も勇める駒に。ゆらりと打ち乗り。帰る姿の跡はる〴〵と。小督は見おくり仲国は。都へとてこそ帰りけれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著