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小袖曽我

シテ 曽我十郎祐成
ツレ 曽我五郎時致
トモ二人 団三郎、鬼王
狂言 春日局
母 兄弟の母

地は 伊豆
季は 五月

四人次第「命牡鹿の隠里。〳〵。富士の裾野を狩らうよ。
シテ詞「是は曽我の十郎祐成にて候。さても頼朝富士の御狩に御出で候ふあひだ。我等も罷り出で候。また是なる時致は。母にて候ふ者の勘当にて候ふ程に。申し直し連れて御狩に罷り出でばやと存じ候。
四人サシ「時しも頃は建久四年。五月半の富士の雪。五月雨雲に降り交ぜて。鹿の子まだらや村山の。裾野の鹿の星月夜。鎌倉殿の御狩の御遊。げにたぐひなき御事かな。
シテ「東八箇国の兵ども。皆御供に参るなれば。
四人「定めて敵の祐経も。御供申さぬ事あらじ。たとひ討つまでの。事は夏野の鹿なりとも。ねらひて見ばやと大丈夫の。狩人にまぎれ打ち出づる。
下歌「人知れぬ大内山の山守も。
上歌「木隠れて。それとは見えじ梓弓。〳〵。矢頃にならば鹿よりも。祐経を射とゞめて。名を富士の嶺に揚げばやと。思ひ立ちぬる狩衣。たとへば君の御咎め。よしそれとても数ならぬ。身にはなか〳〵恐れなし。〳〵。
シテ詞「是に暫く御待ち候へ。某まゐりて案内を申さうずるにて候。如何に案内申し候。
狂言「誰にて御座候ふぞ。や。祐成の御参りにて候。
シテ「さん候某が参りたる由申し候へ。
狂言「畏つて候。大方殿よりの御諚には。祐成の御参りならば申せ。時致の御参りならばな申しそと仰せ出だされて候。
シテ「唯某がまゐりたると申し候へ。
狂言「いかに申し上げ候。祐成の御参りにて候。
母詞「此方へと申し候へ。あら珍しや十郎殿。いづくへの序ぞや。母がために態とはよも。
シテ「さん候久しく参らず候ふ程に向顔のため。又は富士の御狩と申し候ふ程に。
母「さればこそ思ひし事よ君がため。御狩に出づる序ぞや。
シテ「いつしか親子の御戯れ。珍し顔に羨ましやと。
時致「思ひながらも時致は。不孝の身なれば物の隙より。
地「高間の山の峰の雲。よそにのみ見てや止みなん。同じ子に。同じはゝそのもり乳母。〳〵。隔なくこそ育てしに。さも引きかへて祐成には。いろ〳〵の御もてなし。御祝言の御盃。たとへば時致は。後に生れしばかりなり。正しく同じ子の身にて。御おぼえ葦垣の。隔てあるこそ悲しけれ。
シテ詞「日本一の御機嫌にて候。あれへ御参りあつて。春日の局をもつて申され候へ。
時致詞「某が事は御機嫌いかゞはかりがたく候ふあひだ。先々まゐり候ふまじ。
シテ「唯某に御まかせあつて。急いで御参り候へ。
時致「如何に春日の局。時致が参りたる由それ〳〵申し候へ。いつしか守乳母まで。心変りし春日野の。飛火の野守。出でゝだに見候はぬぞや。
詞「時致が参りたる由それ〳〵申し候へ。
母詞「あら不思議や。祐成は只今きたりぬ。九上の禅師は寺にあり。それならで子はなきに。時致といふは誰そ。や。今思ひ出だしたり。箱根の寺に有りし箱王と云ひしえせ者か。それならば母が出家になれと申しゝを聞かざりしほどに勘当せしに。押して是まで来れるは。猶かさねての勘当とや。伊豆箱根富士権現も御覧ぜよ。なほ此後も勘当と。
時致「御誓言に蔀遣戸を。
地「立て添へられて茫然と。やるかたもなき此身かな。うたてやせめて今一目。御簾几帳も下りたり。あら情なの御事や。
シテ「祐成は。かくとも知らで時致が。時移りたり事よきかと。中門を見やりつゝ。早こなたへと招けば。
時致「招かれて山のかせき。
地「泣く〳〵来りたり。打たれても親の杖。なつかしければ去りやらず。〳〵。
シテ詞「さて御機嫌は何と御座候ふぞ。
時致詞「以ての外の御機嫌にて。猶かさねての御勘当と仰せ出だされて候。
母詞「如何に誰かある。
狂言詞「御前に候。
母「時致が事を申さば。祐成ともに勘当と申し候へ。
狂言「畏つて候。いかに申し候。時致の御事を御申しあらば。祐成ともに御勘当と仰せ出だされて候。
シテ詞「まづ畏つたると申し候へ。某存ずる子細の候ふあひだ。此たびは同心にて申さうずるにて候。
時致詞「いや〳〵某はまゐり候ふまじ。
シテ「唯御参り候へ。いかに申し候。我等が親の敵の事。世に隠れなく候ふところに。余りに便なく候ふあひだ。時致がことを申し直し。連れて御狩りに出づべき所に。時致が事を申さば。祐成共に御勘当と候ふや。よく〳〵是を案じ見るに。
クリ「総じて祐成をも誠は思ひ給はぬぞや。
地「たとひ時致出家の暇を申すとも。兄祐成に郎等もなし。しかも身に思ひあり。おのれらさへに見捨つるかと。却つて御叱り候ひてこそ。慈悲の母とも申すべけれ。
シテサシ「それに時致を法師にならぬとの御勘当。たとひ仰せに従ひ。出家仕り候ふとも。
地「我等が事は世に隠れなし。あれ見よ河津が子供こそ。敵を遁れんとの出家。正しく弘法のためならずと。同宿も思ひ賤しまば。心も染まぬ墨衣の。浦島が子の箱根寺にて。明暮くやしと思ふならば。中々俗には劣るべし。
クセ「時致は。箱根に有りししるしに。法華経一部読み覚え。常は読誦し母上の。現世安穏。後生善所と祈念する。又は毎日に。六万返の念仏。父河津殿に廻向する。かほどに他念なき身を。此三年不孝蒙る。恩顔を拝せねば。御恋しさも一つ。又は狩場への門出。御暇恋しさ。一方ならぬ望みなり。大かた治まる御代なれども。狩場や漁に。不慮の争ひある物を。
シテ「其上我等は。狩場において例悪しゝ。
地「昔を思ひ伊豆の奥の。赤沢山のかりくらにて。父も失せさせ給はずや。今とても。狩場とあらばなどしも。御心にも懸けざると。恨み顔にも兄弟は。泣く泣く立つて出でければ。
母「母は声をあげ。あれ留め給へ人々よ。
地「不孝をも勘当をも。ゆるすぞ〳〵時致とて。泣く〳〵出でさせ給へば。
兄弟二人「兄弟は嬉し泣きに。伏しまろべばや。
地「見る人も思ひやりて。泣き居たりや。
母詞「祐成申すによつて。時致が勘当ゆるすにてあるぞ。近うきたりて。狩場への門出いはひて御入り候へ。
シテ詞「如何に時致近う参りて。この年月の御物語り申し候へさるにても。
地「此ほど時致が。尽す心に引きかへて。今はいつしか思子の。母の情有難や。あまりの嬉しさに祐成。御酌に立ちてとり〴〵。時致と共に祝言の。
地「歌ふ声。
兄弟二人「高き名を。雲井に揚げて富士の根の。
地「雪をめぐらす舞のかざし。(二人男舞)
地「舞のかざしの其ひまに。〳〵。兄弟目を引き。これやかぎりの親子の契りと。思へば涙も尽せぬ名残。牡鹿の狩場に遅参やあらんと。暇申して帰る山の。富士野の御狩の折を得て。年来の敵。本望を遂げんと。たがひに思ふ嗔恚の焰。胸のけぶりを富士おろしに。晴らして月を清見が関に。終には其名を留めなば兄弟。親孝行の。例しにならん嬉しさよ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

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