胡蝶
観世小次郎作 前 ワキ 大和の僧 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ シテ 蝶の精 地は 京都 季は 正月 ワキ次第「春立つ空の旅衣。〳〵。日も長閑なる山路かな。 詞「是は和州三吉野の奥に山居の僧にて候。我名所には住み候へども。未だ花の都を見ず候ふ程に。此春思ひ立ち都に上り。洛陽の名所旧跡をも一見せばやと思ひ候。 道行「三吉野の。高嶺の深雪まださえて。〳〵。花遅げなる春風の。吹きくる象の山越えて。霞む其方や三笠山。茂き梢も楢の葉の。広き御影の道直に。花の都に着きにけり。〳〵。 ワキ詞「急ぎ候ふ間。程なう都に着きて候。此所を人に尋ねて候へば。一条大宮とやらん申し候。心静かに一見せばやと思ひ候。又是なる所を見れば。よしありげなる古宮の。軒の檜皮も苔むして。昔忍ぶの忘草。誠によしある所なり。又車寄の辺なる。柴垣の隙より見れば。御階の下に色異なる梅花の。今を盛と見えて候。立ち寄り詠めばやと思ひ候。 シテ詞「なふ〳〵御僧は何くと思し召して。此梅を詠め給ひ候ふぞ。 ワキ詞「不思議やな人ありとも見えぬ屋妻より。女性一人来り給ひ。我に言葉を掛け給ふぞや。さてこゝをば何くと申し候ふぞ。 シテ「さては始めたる御事にてましますかや。先々御身は何くより来り給へる人なるぞ。 ワキ「是は和州三吉野の奥に山居の者にて候ふが。始めて都に上りて候。 シテ「さればこそ見馴れ申さぬ御事なり。こゝは又昔より故ある古宮にて。大内も程近く。所からなる此梅を。雲の上人春毎に。詩歌管絃の御遊を催し。詠め絶えせぬ花の色。心留めて御覧ぜよ。 ワキ「あら面白や所から。よしある花の名所を。今見る事のうれしさよ。さてさて御身は如何なる人ぞ。御名を名乗り給ふべし。 シテ「名所の人にてましませば。其方の名こそ聞かまほしけれ。 ワキ「名所には住めども心なき。身は山賤の年を経て。 シテ「住む家桜色かへて。是は都の花盛。 ワキ「心を留めて。 シテ「色深き。 地「梅が香に。昔を問へば春の月。〳〵。答へぬ影も我袖に。移る匂ひも年を経る。古宮の軒端苔むして。昔恋しき我名をば。何と明石の浦に住む。海士の子なれば宿をだに。定めなき身は恥かしや。〳〵。 ワキ詞「猶々此宮の謂。又御身の名をも委しく御物語り候へ。 シテ詞「さのみ包むも中々に。人がましくや思し召されんさりながら。誠は我は人間にあらず。我草木の花に心を染め。梢に遊ぶ身にしあれども。深き望みのある身なり。などやらん昔より。梅の盛に逢ひもせで。来る春毎に悲しみの。涙の色も紅の。梅花に縁なき此身なり。 地クリ「実にや色に染み。花に馴れ行くあだし身は。はかなき物を花に飛ぶ。胡蝶の夢の戯れなり。 シテサシ「されば春夏秋を経て。 地「草木の花に戯るゝ。胡蝶と生れて花にのみ。契を結ぶ身にしあれども。梅花に縁なき身を歎き。姿をかへて御僧に。詞をかはし奉り。 シテ「妙なる法の蓮葉の。 地「花の台を頼むなり。 クセ「伝へ聞く唐の。荘子があだに見し夢の。胡蝶の姿現なき。浮世の中ぞ哀れなる。定めなき世と云ひながら。官位も陰高き。光る源氏のいにしへも。胡蝶の舞人色々の。御舟に飾る金銀の。瓶にさす山吹の。襲の衣を懸け給ふ。 シテ「花園の。胡蝶をさへや下草に。 地「秋待つ虫は。疎く見るらんと詠めこし。昔語りを夕暮の。月もさし入る宮の内。人目稀なる木の本に。宿らせ給へ我姿。夢に必ず見ゆべしと。夕べの空に消えて。夢の如くなりにけり。夢の如くになりにけり。(中入) ワキ歌「あだし世の。夢待つ春の転寐に。〳〵。頼むかひなき契ぞと。思ひながらも法の声。立つるや花の下臥に。衣片敷く木陰かな。〳〵。 後ジテ「有難や此妙典の功力に引かれ。有情非情も隔てなく。仏果に至る花の色。深き恨みを晴らしつゝ。梅花に戯れ匂ひに交はる。胡蝶の精魂あらはれたり。 ワキ詞「有明の月も照り添ふ花の上に。さも美しき胡蝶の姿の。現はれ給ふは有りつる人か。 シテ詞「人とはいかで夕暮に。かはす言葉の花の色。隔てぬ梅に飛び翔りて。胡蝶にも。誘はれなまし心ありて。 地「八重山吹も隔てぬ梅の。花に飛びかふ胡蝶の舞の。袂も匂ふ気色かな。(舞) 地「四季折々の花盛。〳〵。梢に心をかけまくも。かしこき宮の所から。しめの内野も程近く。野花黄鳥春風を領じ。花前に蝶舞ふ紛々たる。雪を廻らす舞の袖。返す〴〵もおもしろや。 シテ「春夏秋の花も尽きて。 地「春夏秋の花も尽きて。霜を帯びたる白菊の。花折り残す枝を廻り。廻り廻るや小車の。法に引かれて仏果に至る。胡蝶も歌舞の菩薩の舞の。姿を残すや春の夜の。明け行く雲に羽根打ちかはし。明け行く雲に羽根打ちかはして。霞にまぎれて失せにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著