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木幡

世阿弥作

ワキ 伏見某の家臣
女 左衛門の妻
シテ 木幡左衛門
ツレ女 乳母
母 妻の母

地は 山城
季は 九月

ワキ詞「かやうに候ふ者は。伏見の里に住居する者にて候。さても頼み奉り候ふ人は。はや年たけ給ひたる御事にて候。又息女の候ふは。あたり近き木幡の左衛門殿と申す御方に御座候。いつもかの御方より御音信の候。今日は我々文を持つて木幡へ参り候。如何に案内申し候。伏見より御使に参りたるよし。それ〳〵御申し候へ。
女詞「伏見よりと申すか。人までもなしこなたへ来り候へ。
ワキ詞「殿の御留守にてありげに候。あら嬉しや候。如何に申し候。伏見より御文にて候ふ是御覧候へ。
女「あら嬉しや文と申すか。まづ〳〵見うずるにて候。
サシ「げにや世の中に。住まば心に任せても。立ち添ひ頼む柞の森の。頼む木陰に有るべきに。処々の住居とて。そはねば親子の契りとても。
下歌地「薄き衣のひとへにて。伏見の里の竹の庵。夜寒知られて痛はしや。
上歌「羊の歩み隙の駒。〳〵。行くや月日も重なりて。秋も名残か長月の。夕べの空や村時雨。雲となり雨となる。木の葉の風の音までも。心細さの夕べかな。〳〵。
シテ詞「是は木幡の左衛門何がしにて候。今朝とくより罷り出で候ひて。事の外給べ酔ひ。只今我宿に帰り候。其文は何くよりの文にて候ふぞ。
女「いやこれはたゞ。
シテ「いや給はり候へ。見参らせ候ふべし。
女カヽル「女心のはかなさは。恥かしとのみ思ふばかりに。口の内にぞ隠しける。
シテ詞「さればこそ始めより。不審なりつる男文。見せては何と業平の。鬼一口に飲みたる文。今は疑ふ処もなしと。
地「男は腹の立つまゝに。〳〵。又は一つは酔狂の。刀を抜きて刺し殺し。身はいたづらになしにけり。〳〵。
ツレ女「あら悲しや。唯今の文を御不審あり殺し参らせられ候ふと申すか。先づ〳〵帰つて母御に此由申さうずるにて候。
母「いかに乳母。さていつの事と申すぞ。
ツレ女「只今の事にて御入り候。
母「さて其故は如何に。
女「さん候是より参り候ふ御文を。痴者文と思し召して。
母「さも荒けなき人心。
二人「木幡の里の口なしの。言はぬは道理情なや。苦しや木幡山。嶮しき道に馬はなし。徒歩はだしにて来ぬれども。最期を見ぬぞ悲しき。
シテ詞「如何に申し候。かやうの事は親も子も知らぬ事にて候。はや〳〵御帰り候へ。
ツレ女「仰はさる御事にて候へども。かやうになり給ひても。無き名を取り給はん事。世上の聞えも見苦しく候へば。浅ましながら母御より参らせられ候ふ文を。取り出だし御覧候へかし。
シテ「さては未だ御不審候ふか。是は又安き御事なりと。男は再び刀を抜き。母御の嘆かせ給ふなる。心を知れば安方の。
地「鳥も音を鳴く血の涙。紅に染める此文を。取り出だし見れば浅ましや。目もあてられぬ有様。〳〵。
シテ詞「さらば是にて高く読み候ふべし。それにてよく聞し召し候へ。其後は久しく文にても申さず候。御ゆかしく思ひ参らせ候。又秋も末になり候へば。深草山の紅葉もやう〳〵なるべし。思召し立ちて御覧候へ。又御恥かしき申事ながら。早秋深き夜嵐の。
母「なふ〳〵暫く。あたりに人もや聞き候はん。さのみ高くな読み給ひそ。
二人「はや秋深き夜嵐の。さらでも寒き老の寐覚の。薄小袖一つ給び給へ。かまへて〳〵此文を。殿には隠させ給ふべし。もしも落ち散る事もやありなん。あだにも置かで此文を。煙となさせ給ふべし。
地「文は残るに主は今。煙とならん其跡に。留まらん思ひの。母が嘆きを如何にせん。
クセ「げにや嘆きても。返らぬ水のあはれ世に。澄みて濁らぬ人心。愚なるかなたらちねの。中にゆきかふ其文を。恥かしとのみ思草の。忍ぶ気色を生憎に。猶夕顔の露の身の。消えて帰らぬ面影を。見るこそはかなかりけれ。
シテ「今はかひなき妻琴の。同じ道にと思ひ切り。腰の刀に手を掛くれば。こは如何に浅ましやと。母や乳母は取り付きて。我に思ひを筑波嶺の。このもかのもに別れなば。ながらふべきか情なやと。留め給へば力なく。理りや面目なや。何となるべき身の果。是を出離の便りにて。〳〵。様かへ妻の亡き跡を。母諸共にとふ法の。蓮も同じ二世の縁。尽きぬ契となりにけり。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

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