嵯峨女郎花 別名 現在女郎花
シテ 女郎花の精 ワキ 花山の僧正遍昭 所 山城嵯峨 時 秋の半 ワキ次第「千世の古道跡とめて。〳〵。又露分くる袂かな。 詞「是は花山の僧正遍昭にて候。さて秋も半に成り候へば。嵯峨野のあたりへ打越。草花を眺めばやと存じ候。 一声「霧分くる袖も匂ふや咲く花の。数色添ふる面白や。糸薄より懸け繫げ飛ぶ駒の。足もしどろに。いさむらん。や。言語道断。落馬を致して候はいかに。 シテ女「なふ〳〵御僧。御身は落馬をなされ候か。あら笑止や候。 ワキ「さん候詠に続く花故に。前後を忘れ思はずも。あやまち仕り候よ。 シテ「実に〳〵花に心をうつし。家路を忘るゝ者もあれば。御落馬有るも道理なり。それにつき御僧は。花山の僧正遍昭とて。名にし負うたる御方なれば。今の有様御詠歌に承りたく候。 ワキ「誠に是は然るべしと。折からなれや花ゆゑに。 シテ「馬より落ちし事なれば。其有様を大和歌に。 ワキ「連ねてみれば。 地「名に愛でてをれるばかりぞ女郎花。〳〵。我落ちにきと。人に語るな花心。草木心なけれども。春秋分きて色見する。所は嵯峨野なる。さがなき事とおぼすなよ。只名に愛でしばかりなり。〳〵。 シテ「実に浅からぬ言の葉の。名に愛で来たる我ぞかし。 ワキ「名にめで来る我ぞとは。そもやいかなる人やらむ。 シテ「吾は誠は此あたり。くねる姿ぞ女郎花。 ワキ「なべてならざる御方に。 シテ「詞をかはし申さんと。仮に顕れ参りたり。 地「露けき秋の野辺ながら。爰に一夜ましまさば。名にめでそめし花衣。返す袂の舞を舞ひ。歌を謡ひて御僧に。又こそまみえ申さんと。夕霧も立隠す。千種の蔭に失せにけり。〳〵。 ワキ詞「扨は女郎花の精仮に顕れ。詞をかはす不思議さよ。是又和歌の徳なれば。猶も奇特を見るやとて。 地「月に伏す嵯峨野の秋の草枕。〳〵。袖を片敷き夜もすがら。花のあたりに仮寝する。〳〵。 後シテ一声「いにしへの。秋にも越えて嵯峨の山。裾野の月は影も曇らず。 地「秋深き野辺の萩原露さえて。過ぎ行く花の気色かな。 ワキ「不思議や見れば月影に。かゞやくばかり美はしき。女性のけしきことなるは。いかなる人にてましますぞ。 シテ「問ふまでもなし花衣の。我ゆゑ露に臥給はずや。疎に問はせ給ふ物かな。 ワキ「扨は早。先に見初し女郎花の。花の精にて渡り給ふか。 シテ「中々の事草も木も。皆大君の国なれば。いづくも同じ秋の野の。非情の精も時を得て。人にはまみえ申すなり。 地「小男鹿も妻とふ時に成にけり。〳〵。嵯峨野の花の下紅葉。色に出でめや花衣。かさねて返す遊楽の。秋の調べぞ妙もなき。〳〵。 シテ「秋はまづ。都の西を尋ぬれば。 地「嵯峨野の花ぞ。咲初めける。(舞アリ) シテ「咲初て。いく日もあらぬ女郎花。 地「うしろめたくも風に散らむ。 シテ「散らする風に。囲へやかこへ。 地「花の八重垣。八重垣こむる出雲路や。神代も聞かぬ錦を野辺に。折かけ衣の。袂もかざしも。色めくばかりの。分野かな。かくて夜も更け風さえて。草葉も玉の宿りなる。露の光も暗からぬ。月も傾ぶく西の空。山の端くらく成るまゝに。是までなりと遊楽の。かさねて返す小忌衣。花のかざしのしほ〳〵と。露けき床に隠れけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『新謡曲百番』佐佐木信綱 校