桜川
世阿弥作 前 ワキヅレ(男) 人商人 シテ 桜子の母 後 ワキ 磯部寺の僧 子方 桜子 シテ 前に同じ ワキヅレ(男) 里人 地は 常陸 季は 春 男詞「かやうに候ふ者は。東国方の人商人にて候。我久しく都に候ひしが。此度は筑紫日向に罷り下りて候。又昨日の暮程に幼き人を買ひ取りて候。彼人申され候ふは。此文と身の代とを。桜の馬場の西にて桜子の母と尋ねて。慥に届けよと仰せ候ふ程に。唯今桜子の母の方へと急ぎ候。此あたりにて有りげに候。先々案内を申さばやと存じ候。いかに案内申し候。桜子の母の渡り候ふか。 シテ詞「誰にて渡り候ふぞ。 男「さん候桜子の御方より御文の候。又此代物をたしかに届け申せと仰せ候ふ程に。是まで持ちて参りて候。かまへてたしかに届け申すにて候。 シテ「あら思ひよらずや。先々文を見うずるにて候。さても〳〵此年月の御有様。見るも余りの悲しさに。人商人に身を売りて。東の方へ下り候。なふ其子は売るまじき子にて候ふ物を。や。あら悲しや。早今の人も行き方知らずなりて候ふはいかに。是を出離の縁として。御様をも変へ給ふべし。唯返す〴〵も御名残こそ惜しう候へ。 地「名残をしくは何しにか。添はで母には別るらん。 地「独り伏屋の草の戸の。〳〵。明かし暮して憂き時も。子を見ればこそ慰むに。さりとては我頼む。神も木の花咲耶姫の。御氏子なる物を。桜子留めてたび給へ。さなきだに。住みうかれたる故郷の。今は何にか明暮を。堪へて住むべき身ならねば。我子の行くへ尋ねんと。泣く〳〵迷ひ出でゝ行く。〳〵。(中入) ワキ次第「頃待ち得たる桜狩。〳〵。山路の春に急がん。 詞「是は常陸の国磯部寺の住僧にて候。又是に渡り候ふ幼き人は。何くとも知らず愚僧を頼む由仰せ候ふ程に。師弟の契約をなし申して候ふ。又此あたりに桜川とて花の名所の候。今を盛の由申し候ふ程に。幼き人を伴なひ。唯今桜川へと急ぎ候。 歌「筑波山。此面彼面の花盛。〳〵。雲の林の陰茂き。緑の空もうつろふや。松の葉色も春めきて。嵐も浮ぶ花の波。桜川にも着きにけり。〳〵。 男詞「いかに申し候。何とて遅く御出で候ふぞ待ち申して候。 ワキ詞「さん候皆々御供申し候ふ程に。さて遅なはりて候。あら見事や候。花は今を盛と見えて候。 男「中々の事花は今が盛にて候。又こゝに面白き事の候。女物狂の候ふが。美しきすくひ網を持ちて。桜川に流るゝ花をすくひ候ふが。けしからず面白う狂ひ候。是に暫く御座候ひて。此物狂を幼き人にも見せ参らせられ候へ。 ワキ「さらば其物狂を此方へ召され候へ。 男「心得申し候。やあ〳〵彼物狂に。いつもの如くすくひ網を持ちて。此方へ来れと申し候へ。 シテ「いかにあれなる道行人。桜川には花の散り候ふか。何散方になりたるとや。悲しやなさなきだに。行く事やすき春の水の。流るゝ花をや誘ふらん。花散れる水のまに〳〵とめくれば。山にも春はなくなりにけりと聞く時は。少しなりとも休らはゞ。花にや疎く雪の色。桜花。〳〵。散りにし風の名残には。 地「水なき空に波ぞ立つ。 シテ「おもひも深き花の雪。 地「散るは涙の川やらん。 シテサシ「是に出でたる物狂の。故郷は筑紫日向の者。さも思子を失ひて。思ひ乱るゝ心筑紫の。海山越えて箱崎の。波立ち出でゝ須磨の浦。又は駿河の海過ぎて。常陸とかやまで下り来ぬ。実にや親子の道ならずは。はるけき旅を如何にせん。 詞「こゝに又名に流れたる桜川とて。さも面白き名所あり。別れし子の名も桜子なれば。形見といひ折柄といひ。名もなつかしき桜川に。 下歌地「散り浮く花の雪を汲みて。自ら花衣の。春の形見残さん。 上歌「花鳥の。立ち別れつゝ親と子の。〳〵。行くへも知らで天ざかる。鄙の長路に衰へば。たとひ逢ふとも親と子の。面忘れせば如何ならん。うたてや暫しこそ。冬ごもりして見えずとも。今は春べなる物を。我子の花はなど咲かぬ。〳〵。 ワキ詞「此物狂の事にて有りげに候。立ち寄りて尋ねばやと思ひ候。いかに是なる狂女。御事の国里は何くの人ぞ。 シテ詞「是は遥かの筑紫の者にて候。 ワキ「それは何とてかやうに狂乱とはなりたるぞ。 シテ「さん候唯一人ある忘形見の緑子に生きて離れて候ふ程に。思ひが乱れて候。 ワキ「あら痛はしや候。又見申せば美しきすくひ網を持ち。流るゝ花をすくひ。あまつさへ渇仰の気色見え給ひて候。是は何と申したる事にて候ふぞ。 シテ「さん候我故郷の御神をば。木華開耶姫と申して。御神体は桜木にて御入り候。されば別れし我子も其御氏子なれば。桜子と名づけ育てしかば。神の御名も開耶姫。尋ぬる子の名も桜子にて。又此川も桜川の。名もなつかしき花の塵を。あだにもせじと思ふなり。 ワキ「謂を聞けば面白や。実に何事も縁は有りけり。さばかり遠き筑紫より。此東路の桜川まで。下り給ふも縁よなふ。 シテ「先此川の名におふ事。遠きに付きての名誉あり。彼貫之が歌はいかに。 ワキ「実に〳〵昔の貫之も。遥けき花の都より。 シテ「いまだ見もせぬ常陸の国に。 ワキ「名も桜川。 シテ「有りと聞きて。 地「常よりも。春べになれば桜川。〳〵。波の花こそ。間なく寄すらめとよみたれば。花の雪も貫之も。ふるき名のみ残る世の。桜川。瀬々の白波しげゝれば。霞うながす信太の浮島の。浮べ〳〵水の花。げにおもしろき河瀬かな。〳〵。 ワキ詞「いかに申し候。此物狂は面白う狂ふと仰せ候ふが。今日は何とて狂ひ候はぬぞ。 男「さん候狂はする様が候。桜川に花の散ると申し候へば狂ひ候ふ程に。狂はせて御目にかけうずるにて候。 ワキ「急いで御狂はせ候へ。 男「心得申し候。あら笑止や。俄に山おろしのして桜川に花の散り候ふよ。 シテ「よしなき事を夕山風の。奥なる花を誘ふごさめれ。流れぬさきに花すくはん。 ワキ「実に〳〵見れば山おろしの。木々の梢に吹き落ちて。 シテ「花の水屑は白妙の。 ワキ「波かと見れば上より散る。 シテ「桜か。 ワキ「雪か。 シテ「波か。 ワキ「花かと。 シテ「浮き立つ雲の。 ワキ「河風に。 地「散ればぞ波も桜川。〳〵。流るゝ花をすくはん。 シテ「花の下に帰らん事を忘水の。 地「雪を受けたる花の袖。 シテ「それ水流花落ちて春とこしなへにあり。 地「月すさましく風高うして鶴かへらず。 シテサシ「岸花紅に水を照らし。洞樹緑に風を含む。 地「山花開けて錦に似たり。澗水たゝへて藍の如し。 シテ「面白や思はずこゝに浮れ来て。 地「名もなつかしみ桜川の。一樹の陰一河の流れ。汲みて知る名も所から。合ひに合ひなば桜子の。是又他生の縁なるべし。 クセ「実にや年を経て。花の鏡となる水は。散りかゝるをや曇るといふらん。まこと散りぬれば。後は芥になる花と。思ひ知る身もさていかに。我も夢なるを。花のみと見るぞはかなき。されば梢より。あだに散りぬる花なれば。落ちても水のあはれとは。いさ白波の花にのみ。馴れしも今は先だゝぬ。悔の八千度百千鳥。花に馴れ行くあだし身は。はかなき程に羨まれて。霞を憐れみ。露を悲しめる心なり。 シテ「さるにても。名にのみ聞きて遥々と。 地「思ひ渡りし桜川の。波かけて常陸帯の。かごとばかりに散る花を。あだになさじと水をせき。雪をたゝへて浮波の。花のしがらみかけまくも。かたじけなしや是とても。木華開耶姫の。御神木の花なれば。風もよぎて吹き。水も影を濁すなと。袂を浸し裳裾をしをらかして。花によるべの水せきとめて。桜川になさうよ。 シテ「あたら桜の。 地「あたら桜の。とがは散るぞ恨みなる。花も憂し風もつらし。散ればぞ誘ふ。 シテ「誘へばぞ散る花かづら。 地「掛けてのみながめしは。 シテ「なほ青柳の糸桜。 地「霞の間には。 シテ「樺桜。 地「雲と見しは。 シテ「三吉野の。 地「三吉野の。〳〵。川淀滝つ波の。花をすくはゞ若し。国栖魚やかゝらまし。又は桜魚と。聞くもなつかしや。いづれも白妙の。花も桜も。雪も波も皆がらに。すくひ集め持ちたれども。是は木々の花。誠は我尋ぬる。桜子ぞ恋しき。我桜子ぞこひしき。 ロンギ地「いかにやいかに狂人の。言の葉聞けば不思議やな。若しも筑紫の人やらん。 シテ「今までは。誰ともいさや知らぬ火の。筑紫人かと宣ふは。何の御為めに問ひ給ふ。 地「何をか今は包むべき。親子の契り朽ちもせぬ。花桜子ぞ御覧ぜよ。 シテ「桜子と。〳〵。聞けば夢かと見もわかず。いづれ我子なるらん。 地「三年の日数程ふりて。別れも遠き親と子の。 シテ「もとの姿は替はれども。 地「さすが見馴れし面だてを。 シテ「よく〳〵見れば。 地「桜子の花の顔ばせの。子は子なりけり鶯の。逢ふ時も泣く音こそ。うれしき涙なりけれ。 地「かくて伴なひ立ち帰り。〳〵。母をも助け様変へて。仏果の縁となりにけり。二世安楽の縁深き。親子の道ぞありがたき。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著