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実盛

世阿弥作


ワキ 某上人
ワキヅレ 随行僧
シテ 老人


ワキ 前に同じ
ワキヅレ 前に同じ
シテ 斎藤別当実盛

地は 越前
季は 春

ワキサシ「それ西方は十万億土。遠く生るゝ道ながら。こゝも己心の弥陀の国。貴賤群集の称名の声。
ツレ「日々夜々の法の場。
ワキ「げにも誠に摂取不捨の。
ツレ「ちかひに誰か。
ワキ「残るべき。
二人歌「独なほ。仏の御名を尋ね見ん。〳〵。おの〳〵帰る法の場。知るも知らぬも心ひく。誓ひの網に漏るべきや。知る人も。知らぬ人をも渡さばや。彼国へゆく法の船。浮ぶも安き道とかや。〳〵。
シテサシ「笙歌遥に聞ゆ孤雲の上。聖衆来迎す落日の前。あら尊とや今日も又紫雲の立つて候ふぞや。
詞「鐘の音念仏の声の聞え候。さては聴聞も今なるべし。さなきだに立居くるしき老の波の。よりもつかずは法の場に。よそながらもや聴聞せん。一念称名の声の内には。摂取の光明曇らねども。老眼の通路なほ以て明かならず。よし〳〵少しは遅くとも。こゝを去る事遠かるまじや。南無阿弥陀仏。
ワキ詞「いかに翁。さても毎日の称名に怠る事なし。されば志の者と見る所に。お事の姿余人の見る事なし。誰に向つて何事を申すぞと皆人不審しあへり。今日は御事の名をなのり候へ。
シテ詞「是は思ひもよらぬ仰せかな。もとより所は天ざかる。鄙人なれば人がましやな。名もあらばこそ名のりもせめ。只上人の御下向。ひとへに弥陀の来迎なれば。かしこうぞ長生して。此称名の時節にあふ事。盲亀の浮木優曇華の。花待ち得たる心地して。老の幸身に越え。悦びの涙袂に余る。されば此身ながら。安楽国に生るゝかと。無比の歓喜をなす所に。輪廻妄執の閻浮の名を。又あらためて名のらん事。口惜しうこそ候へとよ。
ワキ「げに〳〵翁の申す所ことわり至極せりさりながら。ひとつは懺悔の廻心ともなるべし。たゞ御事が名を名のり候へ。
シテ「さては名のらでは叶ひ候ふまじきか。
ワキ「中々のこと急いで名のり候へ。
シテ「さらば御前なる人をのけられ候へ。近う参りて名のり候ふべし。
ワキ「もとより翁の姿余人の見る事はなけれども。所望ならば人をばのくべし。近うよりて名のり候へ。
シテ「昔し長井の斎藤別当実盛は。此篠原の合戦に討たれぬ。聞しめし及ばれてこそ候ふらめ。
ワキ「それは平家の侍。弓取つての名将。其軍物語は無益。唯御事の名を名のり候へ。
シテ「いやさればこそ其実盛は。此御前なる池水にて鬢鬚をも洗はれしとなり。さればその執心残りけるか。今も此あたりの人には幻の如く見ゆると申し候。
ワキ「さて今も人に見え候ふか。
シテ「深山木の其梢とは見えざりし。桜は花に顕はれたる。老木をそれと御覧ぜよ。
ワキ「不思議やさては実盛の。昔を聞つる物語。人の上ぞと思ひしに。身の上なりける不思議さよ。さては御事は実盛の。其幽霊にてましますか。
シテ「われ実盛が幽霊なるが。魂は冥途にありながら。魄は此世にとゞまりて。
ワキ「なほ執心の閻浮の世に。
シテ詞「二百余歳の程は経れども。
ワキ「浮びもやらで篠原の。
シテ「池のあだ波夜となく。
ワキ「昼とも分かで心の闇の。
シテ「夢ともなく。
ワキ「現ともなき。
シテ「思ひをのみ。
ワキ、ツレ歌「篠原の。草葉の霜の翁さび。
歌「草葉の霜の翁さび。人な咎めそ仮初に。あらはれ出でたる実盛が。名を洩し給ふなよ。亡き世語も恥かしとて。御前を立ち去りて。行くかと見れば篠原の。池の辺にて姿は。まぼろしと為りて失せにけり。〳〵。(中入)
地「いざや別時の称名にて。彼幽霊を弔はんと。
ワキ「篠原の。池のほとりの法の水。〳〵。ふかくぞ頼む称名の。声すみわたる弔ひの。初夜より後夜に至るまで。心も西へ行く月の。光と共に曇りなき。鐘を鳴らして夜もすがら。
ワキ「南無阿弥陀仏なむあみだぶ。
後ジテ「極楽世界に行きぬれば。長く苦界を越え過ぎて。輪廻の故郷隔たりぬ。歓喜の心いくばくぞや。処は不退のところ。命は無量寿仏となふ。頼もしや念々相続する人は。
地「念々ごとに往生す。
シテ「南無と言つぱ。
地「即是帰命。
シテ「阿弥陀と言つぱ。
地「其行此義を以ての故に。
シテ「必ず往生を得べしとなり。
地「ありがたや。
ワキ「不思議やな白みあひたる池の面に。幽に浮び寄る者を。見ればありつる翁なるが。甲冑を帯する不思議さよ。
シテ「埋木の人知れぬ身と沈めども。心の池の言ひがたき。修羅の苦患の数々を。浮べて給ばせ給へとよ。
ワキ「是ほどに目のあたりなる姿言葉を。余人は更に見も聞きもせで。
シテ詞「唯上人のみ明らかに。
ワキ「見るや姿も残の雪の。
シテ「鬢鬚白き老武者なれども。
ワキ「其出立は花やかなる。
シテ「粧ひ殊に曇りなき。
ワキ「月の光。
シテ「ともし火の影。
地「闇からぬ。夜の錦の直垂に。〳〵。萌黄にほひの鎧着て。黄金作の太刀かたな。今の身にてはそれとても。何か宝の池の蓮の。台こそ宝なるべけれ。げにや疑はぬ。法の教へは朽ちもせぬ。黄金の言葉多くせば。などかは至らざるべき。〳〵。
シテクリ「それ一念弥陀仏即滅無量罪。
地「すなはち迴向発願心。心を残す事なかれ。
シテサシ「時至つて今宵逢ひ難き御法を受け。
地「慙愧懺悔の物語。猶も昔を忘れかねて。忍ぶに似たる篠原の。草の陰野の露と消えし。有様かたり申すべし。
シテ詞「さても篠原の合戦破れしかば。源氏の方に手塚の太郎光盛。木曽殿の御前に参りて申すやう。光盛こそ奇異の曲者と組んで首取つて候へ。大将かと見ればつゞく勢もなし。又侍かと思へば錦の直垂を着たり。名のれ〳〵と責むれども終に名のらず。声は坂東声にて候ふと申す。木曽殿。天晴長井の斎藤別当実盛にてやあるらん。然らば鬢鬚の白髪たるべきが。黒きこそ不審なれ。樋口の次郎は見知りたるらんとて召されしかば。樋口参り唯一目見て。涙をはら〳〵と流いて。あなむざんやな。斎藤別当にて候ひけるぞや。実盛つねに申しゝは。六十に余つて軍をせば。若殿原と争ひて。先をかけんも大人気なし。又老武者とて人々に。あなづられんも口惜しかるべし。鬢鬚を墨に染め。若やぎ討死すべきよし。常々申し候ひしが。誠に染めて候。洗はせて御覧候へと。申しもあへず首を持ち。
地「御前を立つてあたりなる。此池波の岸に臨みて。水の緑も影うつる。柳の糸の枝たれて。
歌「気晴れては。風新柳の髪を梳り。氷消えては波旧苔の。鬚を洗ひて見れば。墨は流れ落ちて。もとの白髪と為りにけり。げに名を惜しむ弓取は。誰もかくこそ有るべけれや。あらやさしやとて。皆感涙をぞ流しける。
クセ「又実盛が。錦の直垂を着る事。私ならぬ望なり。実盛都を出でし時。宗盛公に申すやう。故郷へは錦を着て。帰るといへる本文あり。実盛生国は。越前の者にて候ひしが。近年御領に附けられて。武蔵の長井に。居住仕り候ひき。此度北国に。罷り下りて候はゞ。定めて討死仕るべし。老後の思出これに過ぎじ。御免あれと望みしかば。赤地の錦の。直垂を下し賜はりぬ。
シテ「然れば古歌にもゝみぢ葉を。
地「分けつゝ行けば錦着て。家に帰ると。人や見るらんとよみしも。此本文の心なり。されば古への朱買臣は。錦の袂を。会稽山に翻へし。今の実盛は。名を北国の街に揚げ。かくれなかりし弓取の。名は末代に有明の。月の夜すがら。懺悔物語申さん。
ロンギ地「げにや懺悔の物語。心の水の底清く。濁を残し給ふなよ。
シテ「其執心の修羅の道。めぐり〳〵て又こゝに。木曽と組まんとたくみしを。手塚めに隔てられし。無念は今にあり。
地「つゞく兵誰々と。名のる中にも先すゝむ。
シテ「手塚の太郎光盛。
地「郎等は主を討たせじと。
シテ「かけ隔たりて実盛と。
地「押し並べて組む所を。
シテ「あつぱれおのれは。日本一の剛の者と。くんでうづよとて。鞍の前輪に押しつけて。首かき切つて捨てゝけり。
地「其後手塚の太郎。実盛が弓手にまはりて。草摺を畳みあげて。二刀さす所を。むずと組んで二疋が間に。どうと落ちけるが。
シテ「老武者の悲しさは。
地「軍には為疲れたり。風にちゞめる枯木の力も折れて。手塚が下になる所を。郎等は落ちあひて。終に首をば搔き落されて。篠原の土と為つて。影も形もなき跡の。影も形も南無阿弥陀仏。弔ひてたび給へ。跡弔ひてたび給へ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著

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