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佐保山

世阿弥作


ワキ 藤原俊家
シテ 里女
ツレ 同行の里女


ワキ 前に同じ
シテ 佐保姫

地は 大和
季は 春

ワキ次第「立つ旅衣春とてや。〳〵。心ものどけかるらん。
詞「抑是は藤原の俊家とは我事なり。さても和州春日の明神は。氏の神にて御座候ふ間。参詣申さばやと存じ。只今和州に下向つかまつり候。
道行「天の戸の。明け行く空の朝ぼらけ。〳〵。霞を分けて白雲の。衣雁金こしかたを。よそに南の都路や。春日の里に着きにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。是は早春日の社に着きて候。又あの佐保山に何とやらん衣のやうに見えて候。立ち越え見ばやと存じ候。
シテ、ツレ一声「日にみがき。風にさらせる玉衣の。晴るゝ日影もにほふなり。
ツレ「佐保山姫の雲の袖。緑もなびく景色かな。
シテサシ「おもしろや名所はさま〴〵多けれども。分けて誓ひも影たかき。
二人「天の児屋根の神代より。誓ひの末も明らけき。月に照りそふ春日山。弘き恵みの有難さよ。殊更に時もあひあふ春の日の。東を知るも鹿島野や。緑も同じ若草の。山は南の都の空。曇らぬ神の時代かな。
下歌「こゝはとりわき佐保山の。其山姫の衣ほす。袖白妙の露かけて。
上歌「玉葛。来る年の緒の春毎に。〳〵。霞の衣緯薄き。糸の乱れも天つ日の。のどけき色に染めなして。猶白衣のうらゝなる。空や雲間にゝほふらん。〳〵。
ワキ詞「我佐保山に登り。四方のけしきを詠むる処に。いとなまめきたる女性。妙なる衣をさらせるけしき見えたり。そも御身は如何なる人ぞ。
シテ詞「さん候是は此佐保山のあたりに住む女にて候。又これなる衣は所から。よしありてさらせる衣なり。立ちよりてよく〳〵御覧候へ。
ワキ「実に〳〵此衣をよりて見れば。銀色かゝやき異香薫じ。誠に妙なる白衣の。よく〳〵見れば縫ひめもなし。こはそも如何なる衣やらん。
シテ「げによく御覧じとがめて候。是は人間の織る衣にあらず。或る歌に。裁ち縫はぬ衣きし人もなき物を。何山姫の布さらすらんと。かやうによみしも此衣なり。
ツレ「もとより山に住む人の。人間の交はりなき故に。かゝる衣も世の常ならず。
シテ「然れば仙人の衣をば。
二人「裁つこともなく縫ふ事も。なき世のためしは稀にだに。いさ白衣の羽袖の色。妙なりと御覧候へとよ。
ワキ「実に裁ち縫はぬ衣の事。仙人の衣と聞きしなり。さては仙境にや入りぬらん。然らば御身は仙女にてましますか。
シテ「いや仙女まではなけれども。所は佐保の山人なれば。もし佐保姫とや申すべき。
ワキ「不思議やさては佐保姫の。霞の衣とよみたれば。此裁ち縫はぬ薄衣も。もしは霞の衣やらん。
シテ「そも裁ち縫はぬ衣なればとて。
ワキ「霞の衣かと尋ねしは。
シテ「あら謂なの御言葉や。裁ち縫はぬ。衣ほせばとて佐保姫の。〳〵。袖も緑の糸はへて。縫ふ事はなくとも。霞の衣ならば。裁つことはなどかなかるべき。是は裁ちもせず縫ひもせず。まして糸もて織る事も。嵐になびく羽衣の。袖も褄もにほやかに。うらゝなる日にさらすなり。うらゝなる日にやさらさん。
地クリ「夫れ天地開闢の昔より。山海草木に至るまで。万物悉く成仏して。皆霊験の神所たり。
シテサシ「とりわき四季を司どる事。まづ春を守る神といつぱ。
地「此山姫の神徳として。草木森羅万象まで。御影の緑満ち満てり。然れば所の名にしおふ。佐保の山家の恵み深く。千秋万徳の春を得て。佐保山姫と顕はれ給ふ。
クセ「たが為めの。錦なればか秋霧の。佐保の山辺を立ち隠すらんと。ながめけるも此山の。妙なる秋のけしきなり。かやうに治まれる四つの時。いく年々を送りけん。花の春。紅葉の秋の夕時雨。古きを守るためしまでも。あふぐや青によし。奈良の代々ぞ久しき。殊更此山は。春の日影もよそならで。慈悲万行の神徳の。弘き誓ひの海山も。皆安全の国とかや。
シテ「そも〳〵蘆原の国つ神。
地「代々に普き誓ひにも。御名はことに久堅の。天の児屋根の其かみ。此秋津洲の主として。皇孫をいつき給ひしより。八島に治まる時つ風。四海に畳む波の声。万歳を呼ばふ三笠山。御影もさすや川竹の。佐保の山辺の春の色。万山ものどかなりけり。
ロンギ地「実にや誓ひものどかなる。〳〵。佐保の山姫あらたなる。言葉をかはすうれしさよ。
シテ「暫く待たせ給ふべし。とても山路のおついでに。佐保の山の神祭。月の夜遊をはじめん。
地「月の夜遊と聞くよりも。東の嶺に光さし。
シテ「南を見れば春日野の。
地「三笠の森に花降りて。
シテ「こゝにたなびく。
地「山の名の。さをなぐるまの夢の夜の。程を待たせ給へやと。夕霞の衣手に。立ち隠れつゝ失せにけり。立ち隠れ失せにけるとかや。(中入)
ワキ歌「佐保山の。柞の緑片敷きて。〳〵。こゝに仮寐の枕より。音楽聞え花降りて。月春の夜ぞ有難き。〳〵。
後ジテ「春日野の。飛火の野守出でゝ見よ。影さす月の三笠山。薄雲かゝる藤山の。わかむらさきの名にしおふ。木々の梢ものどかなる。春の日影のゝどけさよ。
地「二月の。初申なれや春日山。
シテ「峰とよむまで。いたゞきまつれや佐保姫の。袖もかざしの玉かづら。
地「かけてぞ祈る春日野の。
シテ「若草の山。水屋の御影。
地「みどりもめぐみも春たつ雲の。羽袖をかへすや山かづら。(真の序の舞)
ロンギ地「神楽の鼓春を得て。〳〵。月の夜声も澄み渡る。心をのぶる有難や。
シテ「こや佐保姫の小夜神楽。時の鼓の数々に。神歌の一節。佐保の歌とや云ひてまし。
地「それは遊女のうたふなる。声も妙なり天乙女。
シテ「天の探女の古を。
地「思ひ出づるや。
シテ「久堅の。
地「月の御舟の水馴棹。山姫の袖。かへす霞の薄衣。裁ち縫はねども白糸の。来る春なれや永き日に。雨つちくれを動かさで。世を守る佐保姫の。めでたき例なるべしや。めでたき例なるべし。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著

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