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志賀 古名 黒主 又 志賀黒主

世阿弥作


ワキ 官人
シテ 樵の翁
ツレ 樵夫


ワキ 前に同じ
シテ 大友黒主

地は 近江
季は 三月

ワキ次第「道ある御代の花見月。〳〵。都の山ぞ長閑けき。
詞「そも〳〵是は当今に仕へ奉る臣下なり。さても江州志賀の山桜。今を盛なる由承り及び候ふ程に。唯今志賀の山路へと急ぎ候。
道行「春の色。棚引く雲の朝ぼらけ。〳〵。長閑けき風の音羽山。今朝越え来れば是ぞ此。名におふ志賀の山越や。湖遠き詠めかな。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。江州志賀の山に着きて候。暫く此所に候ひて花を詠めうずるにて候。
シテ、ツレ一声「さゝ波や。志賀の都の名を留めて。昔ながらの山桜。
ツレ「春に馴れてや心なき。
二人「身にも情の残るらん。
シテサシ「山路に日暮れぬ樵歌牧笛の声。
二人「人間万事様々の。世を渡り行く身の有様。物毎に遮る眼の前。光の陰をや送るらん。
下歌「余に山を遠く来て。雲又跡を立ち隔て。
上歌「入りつる方も白波の。〳〵。谷の川音雨とのみ。聞えて松の風もなし。実にや誤つて。半日の客たりしも。今身の上に知られたり。〳〵。
ワキ詞「不思議やな是なる山賤を見れば。重かるべき薪に猶花の枝を折り添へ。休む所も花の陰なり。是は心有りて休むか。唯薪の重さに休み候ふか。
シテ詞「仰せ畏つて承り候ひぬ。先薪に花を折る事は。道のべの便の桜折り添へて。薪や重き春の山人と。歌人も御不審有りし上。今更何とか答へ申さん。
ツレ「又奥深き山路なれば。松も檜原も多けれども。取り分き花の陰に休むを。
シテ「唯薪の重さに休むかとの。仰せは面目なきよなふ。
二人「さりながら彼黒主が歌の如く。其様賤しき山賤の。薪を負ひて花の陰に。休む姿は実にも又。其身に応ぜぬ振舞なり。許し給へや上﨟達。
ワキ「こは如何に優るをも羨まざれ。劣るをも賤しむなとの。古人の掟は誠なりけり優しくも。古歌の喩への心を以て。今の返答申したり。
シテ「いや〳〵古歌の喩へとやらんも。更々知らぬ身なれども。賤しき身にも思ひよりて。
ワキ「彼大友の黒主が。心を寄する老の波。
シテ「和歌の浦わの藻塩草。
ワキ「かく喩へ置く世語の。
シテ「それは黒主。
ワキ「是は誠に。
シテ「さまも賤しき。
ワキ「山賤の。
地「身には応ぜぬ事なれど。許させ給へ都人。とてもの思出に。花の陰に休まん。実にや今までも。筆を残して貫之が。言葉の玉のおのづから。古へ今の道とかや。〳〵。
地クリ「夫れ賢かつし時代を尋ぬるに。延喜の聖代の古へ。国を恵み民を撫でゝ。万機の政を治め給ふ。
シテサシ「然れば其御時に至つて。和歌の道盛んにして。古へ今の詠歌を撰び。
地「二聖六歌仙を始めとして。其外の人々は。野辺の葛のはひゝろごり。林に茂き木の葉の露の。色に染み行く歌人の。心は花になるとかや。
シテ「実に埋木の人知れぬ。
地「ことわざまでの情とかや。
クセ「そも〳〵難波津浅香山の。影見えし山の井の。浅くは誰か思草の。露行き霜来る色なれや。浜の真砂より。数多き言の葉の。心の花の色香までも。妙なりや敷島の。道有る御代の翫び。然れば三十一文字の。神も守護し給ひて。無見頂相の如来も。感応垂れ給へば。君も安全に。万民時を楽しみて。都鄙円満の雲の下。四海八洲の外までも。波の声万歳の。響きは長閑けかりけり。
シテ「今天皇の御代久に。
地「万の政の。道直ぐに渡る日の。東南に雲をさまり。西北に風静かにて。言葉の林栄ゆくや。花も常磐の山松の。巷にうたふ声までも。是れ和歌の詠に漏るべしや。天地を動かし。鬼神も感をなすとかや。
ロンギ地「実にや異なる山賤の。〳〵。家路いづくの末ならん。ゆかしき心なるべし。
シテ「今は何をか包むべき。其いにしへは大友の。黒主といはれしが。時代とて此山の。神とも人や見るらん。
地「そも此山の神ぞとは。不思議やさては大友の。
シテ「それは黒主が家の名の。
地「大友か。
シテ「我はたゞ。
地「薪負ふ友もなくて。独り山路の花の陰に。長休みしつる恥かしやと。夕べの雲に立ち隠れて。志賀の宮路に帰りけり。〳〵。(中入)
ワキ歌「いざ今日は。春の山辺にまじりなん。〳〵。暮れなばなげの花の陰。月に詠じて天の原。時の調子に移り来る。舞歌の声こそ新なれ。〳〵。
後ジテ「雪ならば幾度袖を払はまし。花の雪吹の志賀の山。越えても同じ花園の。里も春めく近江の海の。志賀辛崎の松風までも。千声の春の長閑けさよ。海越に。見えてぞ向ふ鏡山。
地「年経ぬる身は老が身の。
シテ「それは老が身これは志賀の。
地「神の白木綿かけまくも。忝しや神楽の舞。(神舞)
ロンギ地「不思議なりつる山人の。〳〵。薪の斧の永き日も。残る和光のあらたさよ。
シテ「実に惜しむべし君が代の。長閑けき色や春の花の。塵に交はる雪ならば。踏む跡までも心せよ。
地「実に心して春の風。声も添ふなり御神楽の。
シテ「小忌の衣の色はえて。
地「花は梢の白和幣。
シテ「松は立枝の。
地「青和幣。かくるやかへるや梓弓。春の山辺を越え来れば。道も去りあへず散る花の。雲の羽袖を返しつゝ。紅の御袴のそばを取り。拍子を揃へて神かぐら。実に面白き奏かな。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著

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