豊公謡曲 柴田
シテ 柴田勝家の霊 ワキ 尾張の僧 所 近江北の庄 時 四月 ワキ詞「是は尾張の国末もりより出でたる僧にて候。我未だ北国を見ず候ふ程に。此度越路に趣き候。 道行「行末はまだ越え馴れぬ不破の関。〳〵。関の藤川打ち渡り。宿はと問へば木の本の。草の枕を賤が嶽。跡に心はかへる山。憂身の果は白露の。玉江の蘆をはる〴〵と。北の庄にも着きにけり。〳〵。 詞「是は早北の庄に着きて候。先年此処にて打死し給ひし柴田修理亮勝家のゆかりの者にて候へば。処の人を相待ち。一本ゆゑの草の原の。道しるべをも頼まうずるにて候。 シテ一声「胡蝶夢中の春も過ぎ。杜鵑枝上の夏は来て。 サシ「時鳥鳴く声きけば別れにし。故郷さへぞ恋草の。茂りの中の玉ぼこの。道絶え〴〵になり果てゝ。あはれ跡とふ人もなし。人知れず。独袂を行く水の。 地「かすかなる。野中の竹の一むらの。〳〵。里離れなる遠方に。高嶺の雲は晴れながら。猶村雨の音にたゞ。まがふや風の山松の。木の間に残る夕日かな。〳〵。 ワキ詞「如何に老翁。此あたりにて柴田勝家の果て給ひし旧跡を教へて賜り候へ。 シテ詞「勝家のむなしくなりし処は。あれに見えたる城郭なりしを。死灰を集め此野に移し。旧跡となして候。 ワキ詞「其古塚のしるべして賜り候へ。 シテ「こなたへ御入り候へ。是勝家の古墳なり。さて〳〵かやうに跡とひ給ふ。御僧の生国こそは聞かまほしけれ。 ワキ「もとより出家の身。一所不住の事なれば。旧里といはん方もなし。去りながら世に亡き人のゆかりの末の。末もりの昔を思ひ出づるにも。苔の衣をぬらしけり。 シテ「程なう日の暮れて候。此方へ御入り候へ。 ワキ「御憐愍ありがたう候。さらば御供申さうずるにて候。 シテ「いとゞだに賤が伏屋のいぶせきに。蚊遣の煙立ち添へば。暫しも宿り給ふべきか。 ワキ詞「先年柴田果て給ひし。最期の有様知らせ給はゞ。語つて御聞かせ候へ。 シテ詞「委しくは知らず候へども。語つて聞かせ申さうずるにて候。 クリ地「さる程に柴田勝家は。信長公の幕下に仕へ奉り。軍旅に於て切耳を献ずる事はあまたゝび。誉れをいふに比類なし。 シテサシ「されば羽柴筑前守秀吉は。花の都を敷島に。望のありと白糸の。とけし心を引きかへて。彼一人を滅ぼさば。我を欺く人あらじと。俄に謀叛を企てゝ。近江の国に切つて出で。只一戦に打ち負けて。又此城に立て籠る。さて我妻を近づけて。運命既に尽き果てゝ。此暁を限りなり。よし〳〵御身には。なす罪科もあらばこそ。敵のゆかりを頼みつゝ。夜半にまぎれて落ち給ひ。暫し此世に存らへて。亡き跡とひてたび給へ。対のお方は聞き給ひ。一樹の陰の宿りさへ。他生の縁と聞く物を。 シテ「況んや諸共に。 地「比目の枕翡翠の衾。かさねし夜々の私語。尽きせじとこそ契りしに。思ひも寄らぬ只今の。言葉の末を恨みつゝ。同じ心に自害せし。憂き身の果ぞあはれなる。 ロンギ地「げに老翁の物語。私語まで伝へ知る。其身如何なる人やらん。 シテ「さて御僧は勝家が。ゆかりの末と聞くなれば。ふりにし里のゆかしさに。此妄執のあらはれて。御物語申すなり。 ワキ「不思議やさては勝家が。其面影に立ち向ひ。言葉をかはす嬉しさよ。 シテ「頃は卯月の末つ方。空しくなりし年月も。けふに廻り来にけり。 地「五月待つ。花橘の香をかけば。昔の人の袖に只。名残は猶も有明の。月の陰野の草がくれに。かき消すやうに失せにけり。〳〵。 ワキ歌「夏の夜の月も傾く山の端の。〳〵。風物凄き曙に。松の下道分け入りて。亡き跡いざや弔らはん。〳〵。南無幽霊輪廻出離悪念掃除。 後ジテ「蒼顔白髪五更の月。黄葉紅花一夢の風。輪廻の妄念晴らしつゝ。涼しき道に行末の。心に残る塵もなし。 ワキ「不思議やななべて茂れる草の原に。蛍のともす火影より。さもいかめしき老武者の。甲冑を帯し色めく姿の見え給ふ。もし勝家にてましますか。 シテ詞「我勝家が幽霊なるが。浮世の妄執晴れながら。御弔ひの報恩に。二度まみえ申すなり。 ワキ「げにや輪廻を放れても。悟了は未悟に同じければ。あはれ勝家最期の体。只今学びて見せ給へ。 シテ「さても我北国勢を引卒し。江州表に取り出でゝ。敵の陣へ乱れ入る。先手のつはもの討ち取りて。けふの軍に勝家が。其名を揚げて居たりしに。 地「秀吉自ら馳せ向へば。〳〵。数万の味方は切り立てられて。力およばず梓弓。もとの住家に立ち帰る。無念限りはなかりけり。 シテ「其儘敵は押し寄せて。前には狼煙天をかすめ。後に鯨波地をひたす。四面に楚歌の声々なり。とても遁れぬ物ゆゑに。切つて出でんと太刀抜き持つて。戸びらを開けば。矢先を揃へて勝家が。鎧の胸板いかり猪の。臥戸をかへて。天守にあがり火を掛けて。腹十文字に切り破り。焰に飛び入り果てし身の。御法の功徳に夜の月影。くらからぬ修羅道の。影くらからぬ修羅道の。苦を遁るゝこそ有難けれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著