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正儀世守

ワキ 官人
シテ 母
ツレ 世守(弟)
ツレ 正儀(兄)

地は 唐土
季は 雑

次第「屠所におもむく重科人。〳〵。羊あゆみを急がん。
ワキ「さても彼二人の者に縄をかけ。科に行ふ事余の儀にあらず。盗人無道の業にてもなし。宮中にて親の敵を討ちたれば。幼しといひ孝なりといひ。尤も助くべけれども。国の法とて力なく。二人ともに切られん事の無慙さよ。
下歌「実にや何事も。報いありける浮世かな。
上歌「古へ彼大臣殿。〳〵。かれらが父を討ちし故。報いの罪の遁れ得で。闇々と討たれぬ。さればそれ故彼等をも。邪見の官人生捕りて。時をもかへず羊のあゆみの。廻る因果と云ひながら。早くも報ふ浮世ぞと。末の露。もとの雫や世の中の。後れ先だつならひかな。〳〵。
ワキ詞「急ぎ候ふ程に。屠所の辻に着きて候。帝よりの宣旨には。申の一点に誅し申せとの御事にて候ふが。いまだ時が来らず候ふほどに。暫く時を待たばやと存じ候。
シテ一声「如何にあれなる道行人。そなたへ稚き囚人や二人帰りて候ふか。何帰るとや。それ〳〵留めて給はり候へ。なふそれこそわらはが子にて候へ。旧里を出でし鶴の子の。
地「松にかへらぬ淋しさよ。
地「去る程に。時の未もはや過ぎぬ。申一点も近づけば。二人を西に引きすゑて。既に切らんと進みけり。
シテ「聞くより心うち乱れ。飛び立つばかり思へども。さすが女の身にあれば。先へはさらに行かれず。
地「十念高く唱へつゝ。あたりの人をのけゝれば。
シテ「見物の人々も。おのきあれと急ぎけり。
地「南無阿弥陀仏と唱へつゝ。太刀振り上げて切らんとす。
シテ「剣の下よりも。
地「立ちよりてや。子供に取りつきて泣き居たりや。
ワキ詞「いかに是なる女。何とて大事の首の座敷へは直りけるぞ。
シテ詞「さて彼等をば何しに誅し給ふぞ。
ワキ「今夜内裏に忍び入り。左の大臣殿を討ちたる科により誅するよ。
シテ「なふ其大臣殿は。かれらが為めには親の敵にて候はぬか。
ワキ「中々の事親のかたき候ふよ。
シテ「親のかたきを討ちたる者をば。陣の口をさへ許さるゝと申すたとへの候ふものを。
ワキ「それはさる事なれどもさりながら。この国の大法には。人を討ちたるものをば助けぬ法にて候。
シテ「人を討ちたる者を助けぬ御法ならば。さてかれらが父を討ちし大臣殿をば。何とて今まで助け給ふぞ。
ワキ「それは大人是は小人。いかで其身に対すべき。
シテ「位を重んぜば。賤しきを敵と思ふべからず。彼等は賤しき者なれば。たゞ打ち捨てゝおき給へ。
ワキ「申す処はさる事なれども。もとより定まる法例には。
シテ「一人を討たば。
ワキ「一人を切り。
シテ「二人を討てば。
ワキ「あうそれは二人誅するよ。
シテ「さて彼等は何人討ちたるぞ。
ワキ「大臣殿一人討ちたるなり。
シテ「そは其法こそ違ひたれ。そなたは大臣たゞ一人。此方はかれら兄弟父共には三人。三人の者に別るゝならば。わらはも此世に有るまじや。さもあらば一人のかはりに四人まで失ひ給はん事は如何に。是は憲法の政道か。
ワキ「余りの道理につめられて。此官人も是非を弁へず候。さあらば兄弟の内を一人切り申さうずるにて候。
シテ「あら悲しやみづからを切つて給はり候へ。
ワキ「総じて囚人に身代りはなきぞとよ立ちのき候へ。いかに正儀世守。何れにても本人出でゝ切られ候へ。
世守「さん候本人にて候ふ切つて給はり候へ。
正儀「順義と申し年のほど。唯それがしを切り給へ。
世守「老少不定と聞く時は。親に先だつ子もあれば。弟も兄に先だつべし。
正儀「兄と思はゞ何とてか。我が言ふ事をば背くらん。聞かずは汝不孝たり。
世守「兄弟此世にありてこそ。兄の不孝も恐るべけれ。
地「御身空しくなり給はゞ。不孝とも勘当とも。誰かは我を叱るべき。とても不孝の身とならば。御手に掛けさせおはしませ。
正儀「正儀は言葉を出だし得ず。
シテ「母も涙に咽びけり。
地「邪見の官人も。皆鉾剣を投げ捨てゝ。顔を押へて泣き居たり。
ワキ詞「言語道断何れも剛なる者にて。我さきへ切られん〳〵と申し候ふ程に。時刻が移り候。何れにてもあれ一人えつて出だし候へ。
シテ詞「あら計ひ苦しの母が心のうちや候。兄とやいはん弟とや。正儀は父が形見なり。世守は母が名残なり。
ワキ詞「いや〳〵左様に申せば時刻が移り候。疾う〳〵えつて出だし候へ。
シテ詞「わらはも思ひ定めて候。兄を助けて弟を切つて給はり候へ。
ワキ「あら不思議や。皆人々に弟は乳のあまりとて悲しむ処に。何とて兄を助け弟を切れとは申すぞ。
シテ「是も謂の候ふぞとよ。兄は継子弟はわらはが実子にて候。
ワキ「さればこそゝれにつけても不審なれ。まさしき継子を助け置き。わが子を切れと申す事。返す〴〵も不審なり。
シテ「兄を殺さば本よりも。憎みて切るこそ道理なれと。草の陰なる彼等が父の。思はん事も恥かしければ。さてこそ兄を助け。弟を切つて給はんとは。せんかたなさに申すなり。
ワキ「あら不便や候。さては継母継子にて有るよな。今まで育てつる有様委しく申し侯へ。
シテ「やあ如何に正儀。やはか今ならでは継母とも思ふ。うたてやなお事三歳の年の春。御身の母此世むなしくなり給ふ。其後わらは御事の父と契を結び。子と云ふ者のなかりしかば。世にいとほしき事限りなし。年立つ春の朝には。齢を延べて猶足らず。九夏の天はいつとなく。暁の風は手を去らず。立ちても居てもいとほしみの心をなし。寐ても覚めても成人を待ちしなり。其後世守出で来ても。おことを隔つる事もなく。
地「つぼみさかふる梅桜。月日の如く育てしに。
クセ「かくまゝしき中ぞとは。いまだ知れる人もなし。さればいつまでも。顕さじとは思へども。命を助けん其為めに。今此事をあらはすぞ。かまひて世守よ。母うらめしと思ふなよ。継子をだにも憎まねば。まして我子をば。何しに憎みはつべき。
シテ「此理りを思ひやりて。
地「兄が命に代らんと。おもふも孝子なるものを。母うらめしと思ふなよ。さかさまなりける。世にながらへて何かせん。思へば身もくるし。母ともに誅し給へや。
ワキ詞「物の哀れを知らざるは。唯木石にことならず。彼兄弟を助け置き。明日は内裏に召し出だされ。たとひ勅勘を蒙る身となるとも。いかでか助けであるべきぞと。此よし奏聞申しければ。帝は是を聞し召し。
地「もとより世守といへる字は。世を守ると書きたれば。世守を国のあるじとし。正儀を左の臣下とす。実に有難や孝子の。仏意にかなふ故なりと。上下万民よろこびの。家に帰るぞ有難き。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著

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