鍾馗
禅竹作 前 ワキ 終南山麓の人 シテ 老翁 後 ワキ 前に同じ シテ 鍾馗 地は 唐土 季は 秋 ワキ詞「是は唐終南山の麓に住居する者にて候。さても我奏聞申すべき事の候ふ間。唯今帝都に趣き候。 道行「終南山を立ち出でゝ。〳〵。野草の露を分け行けば。遠村に煙満ち。人屋しるき眺望の。海路遥かに過ぐれば。釣の小舟もかへる波。寄る程もなきながめかな。〳〵。 シテ詞「なふ〳〵あれなる旅人に申すべき事の候。 ワキ詞「何事にて候ふぞ。 シテ「我昔し誓願の子細あるにより。悪鬼を亡ぼし国土を守らんとの誓ひあり。君賢人をなし給はゞ。宮中に現じ奇瑞をなすべきとの。此事を奏してたび給へ。 ワキ「是は不思議の御事かな。さて〳〵御身は如何なる人ぞ。 シテ「今は何をか包むべき。我は鍾馗と云へる進士なるが。及第のみぎんに亡ぜし。其執心を翻へし。後世に猶望みあり。 ワキ「実に〳〵鍾馗の御事は。世に隠れなき進士なるが。其亡心にてましますか。 シテ「中々なりと夕暮の。 ワキ「物冷ましき。 シテ「折柄に。 地「草虫露に声しをれ。〳〵。尋ぬるに形なく。老松既に風絶えて。問へども松は答へず。実にや何事も。思ひ絶えなん色も香も。終には添はぬ花紅葉。いつをいつとか定めん。いつをかいつと定めん。 クセ「一生は風の前の雲。夢の間に散じ易く。三界は水の上の泡。光りの前に消えんとす。綺らん殿の内には。有為の悲しみを告げ。翡翠の帳の内には。有漏の願力有りとかや。栄花は是れ春の花。昨日は盛なれども。今日は衰ふわんりきの。秋の光り朝に増じ。夕べに減ずとか。春去り秋来つて。花散じ葉落つ。時移り気色変じて。楽しみ既に去つて。悲しび早く来れり。 シテ「朝顔の。花の上なる露よりも。 地「はかなき物はかげろふの。有るか無きかの心地して。世を秋風のうち靡き。群れ居る田鶴の音を鳴きて。四手の田長の一声も。誰が黄泉路をか知らすらん。あはれなりける人界を。いつかは離れはつべき。 ワキ詞「是は不思議の御事かな。急ぎ帝都に趣きつゝ。委しく奏聞申すべし。暫く待たせ給へとよ。 シテ「とても見みえし夢の内。誠の姿を顕はさんと。 ワキ「いふより早く。 シテ「気色変りて。 地「伝へ聞く仏在世の。〳〵。浄蔵浄眼の如くに。其高さ七多羅樹。虚空に上りては座せしめ。地に入つては火焰を放して。水を踏む事陸地の如くに。さら〳〵と走り去つて。形はさながら山彦の。〳〵。声ばかりして失せにけり。〳〵。(中入) ワキ歌「苔のむしろに法をのべ。〳〵。さも冷ましき山陰の。嵐と共に声立てゝ。此妙経を読誦する。〳〵。 後ジテ「鬼神に横道なしといふに。何ぞみだりに騒がしく。汝知らずや我心。国土を守る誓ひあり。 地「宝剣光り冷ましく。日月影おろそかに。松嵐梢を払ふが如く。悪鬼の乱れ恐れ去つて。実にも鍾馗の精霊たり。 ロンギ地「有難の御事や。そも君道を守らんの。其誓願の御誓ひ。如何なる謂なるらん。 シテ「鍾馗及第のみぎんにて。我と亡ぜし悪心を。翻へす一念。発起菩提心なるべし。 地「実に誠ある誓ひとて。国土をしづめ別きて実に。 シテ「禁裏雲井の楼閣の。 地「こゝやかしこに遍満し。 シテ「あるひは玉殿。 地「廊下の下。御階の下までも。〳〵。剣をひそめて忍び〳〵に。求むれば案の如く。鬼神は通力失せ。顕はれ出づれば忽ちに。ずた〳〵に切り放して。まのあたりなる其勢。唯此剣の威光となつて。天にかゝやき地に普く。治まる国土となる事治まる国土となる事も。実に有難き誓ひかな。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著