隅田川
結崎十郎作 世阿弥作とも ワキ 渡守 ワキヅレ(男) 旅人 シテ 母(狂女) 子方 梅若丸亡霊 地は 武蔵 季は 三月 ワキ詞「是は武蔵の国隅田川の渡守にて候。今日は舟を急ぎ人々を渡さばやと存じ候。又此在所にさる子細有つて。大念仏を申す事の候ふ間。僧俗を嫌はず人数を集め候。其由皆々心得候へ。 男次第「末も東の旅衣。〳〵。日も遥々の心かな。 詞「かやうに侯ふ者は。都の者にて候。我東に知る人の候ふ程に。彼者を尋ねて唯今まかり下り候。 道行「雲霞。あと遠山に越えなして。〳〵。いく関々の道すがら。国々過ぎて行く程に。こゝぞ名におふ隅田川。渡りに早く着きにけり。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。是は早隅田川の渡りにて候。又あれを見れば舟が出で候。急ぎ乗らばやと存じ候。如何に船頭殿舟に乗らうずるにて候。 ワキ詞「中々の事めされ候へ。先々御出で候跡の。けしからず物騒に候ふは何事にて侯ふぞ。 男「さん候都より女物狂の下り候ふが。是非もなく面白う狂ひ候ふを見候ふよ。 ワキ「さやうに候はゞ。暫く舟をとゞめて。彼物狂を待たうずるにて候ふ。 シテサシ「実にや人の親の心は闇にあらねども。子を思ふ道に迷ふとは。今こそ思ひ白雪の。道行人に言づてゝ。行方を何と尋ぬらん。聞くや如何に。上の空なる風だにも。 地「松に音する習ひあり。 シテ「真葛が原の露の世に。 地「身を恨みてや明け暮れん。 シテ「是は都北白河に。年経て住める女なるが。思はざる外に独子を。人商人に誘はれて。行方を聞けば逢坂の。関の東の国遠き。東とかやに下りぬと。聞くより心乱れつゝ。そなたとばかり思子の。跡を尋ねて迷ふなり。 下歌地「千里を行くも親心。子を忘れぬと聞く物を。 上歌「もとよりも。契り仮なる一つ世の。〳〵。其内をだに添ひもせで。こゝやかしこに親と子の。四鳥の別れ是なれや。尋ぬる心の果やらん。武蔵の国と。下総の中にある。隅田川にも着きにけり。〳〵。 シテ詞「なふ〳〵我をも舟に乗せて賜はり候へ。 ワキ詞「お事は何くより何方へ下る人ぞ。 シテ「是は都より人を尋ねて下る者にて候。 ワキ「都の人といひ狂人といひ。面白う狂うて見せ候へ。狂はずは此舟には乗せまじいぞとよ。 シテ「うたてやな隅田川の渡守ならば。日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ。かたの如くも都の者を。舟に乗るなと承るは。隅田川の渡守とも。覚えぬ事な宣ひそよ。 ワキ詞「実に〳〵都の人とて。名にし負ひたる優しさよ。 シテ「なふ其詞はこなたも耳に留るものを。彼業平も此渡りにて。名にしおはゞ。いざ事問はん都鳥。我思ふ人は有りやなしやと。なふ舟人。あれに白き鳥の見たるは。都にては見馴れぬ鳥なり。あれをば何と申し候ふぞ。 ワキ「あれこそ沖の鷗候ふよ。 シテ「うたてやな浦にては千鳥とも云へ鷗とも云へ。など此隅田川にて白き鳥をば。都鳥とは答へ給はぬ。 ワキ「実に〳〵誤り申したり。名所には住めども心なくて。都鳥とは答へ申さで。 シテ「沖の鷗と夕波の。 ワキ「昔にかへる業平も。 シテ「有りや無しやと事問ひしも。 ワキ「都の人を思妻。 シテ「わらはも東に思子の。ゆくへを問ふは同じ心の。 ワキ「妻を忍び。 シテ「子を尋ぬるも。 ワキ「思ひは同じ。 シテ「恋路なれば。 地「我も又。いざ事とはん都鳥。〳〵。我思子は東路に。有りやなしやと問へども〳〵。答へぬはうたて都鳥。鄙の鳥とやいひてまし。実にや舟ぎほふ。堀江の川のみなぎはに。来居つゝ鳴くは都鳥。それは難波江これは又。隅田川の東まで。思へば限りなく。遠くも来ぬる物かな。さりとては渡守。舟こぞりて狭くとも。乗せさせ給へ渡守。さりとては乗せてたび給へ。 ワキ詞「かゝるやさしき狂女こそ候はね。急いで舟に乗り候へ。此渡りは大事の渡りにて候。かまひて静に召され候へ。 男詞「なふあの向ひの柳の本に。人の多く集まりて候ふは何事にて候ふぞ。 ワキ詞「さん候ふあれは大念仏にて候。それにつきてあはれなる物語の候。此舟の向ひへ着き候はん程に語つて聞かせ申さうずるにて候。さても去年三月十五日。しかも今日に相当つて候。人商人の都より。年の程十二三ばかりなる幼き者を買ひとつて奥へ下り候ふが。此幼き者。いまだ習はぬ旅の疲れにや。以ての外に違例し。今は一足も引かれずとて。此河岸にひれふし候ふを。なんぼう世には情なき者の候ふぞ。此幼き者をば其まゝ路次に捨てゝ。商人は奥へ下つて候。さる間此辺の人々。此幼き者の姿を見候ふに。よし有りげに見え候ふ程に。さま〴〵に痛はりて候へども。前世の事にてもや候ひけん。たんだ弱りに弱り。既に末期と見えし時。お事はいづく如何なる人ぞと。父の名字をも国をも尋ねて候へば。我は都北白河に。吉田の何某と申しゝ人の唯ひとり子にて候ふが。父には後れ母ばかりに添ひ参らせ候ひしを。人商人にかどはされて。かやうになり行き候。都の人の足手影もなつかしう候へば。此道の辺りに築き籠めて。しるしに柳を植ゑて賜はれとおとなしやかに申し。念仏四五返称へ遂に事終つて候。なんぼうあはれなる物語にて候ふぞ。見申せば船中にも少々都の人も御座ありげに候。逆縁ながら念仏を御申し候ひて御弔ひ候へ。よしなき長物語に舟が着いて候。とう〳〵御上り候へ。 男詞「如何さま今日は此所に逗留仕り候ひて。逆縁ながら念仏を申さうずるにて候。 ワキ「如何に是なる狂女。何とて舟よりは下りぬぞ急いで上り候へ。あらやさしや。今の物語を聞き候ひて落涙し候ふよ。なふ急いで舟より上り候へ。 シテ「なふ舟人。今の物語はいつの事にて候ふぞ。 ワキ「去年三月今日の事にて候。 シテ「さて其児の年は。 ワキ「十二歳。 シテ「主の名は。 ワキ「梅若丸。 シテ「父の名字は。 ワキ「吉田の何某。 シテ「さて其後は親とても尋ねず。 ワキ「親類とても尋ねこず。 シテ「まして母とても尋ねぬよなふ。 ワキ「思ひもよらぬ事。 シテ「なふ親類とても親とても。尋ねぬこそ理なれ。其幼き者こそ。此物狂が尋ぬる子にては候へとよ。なふ是は夢かやあらあさましや候。 ワキ詞「言語道断の事にて候ふ物かな。今まではよその事とこそ存じて候へ。さては御身の子にて候ひけるぞやあら痛はしや候。かの人の墓所を見せ申し候ふベし。こなたへ御出で候へ。 シテ「今まではさりとも逢はんを頼みにこそ。知らぬ東に下りたるに。今は此世になき跡の。しるしばかりを見る事よ。さても無慙や死の縁とて。生所を去つて東のはての。道の辺りの土となりて。春の草のみ生ひ茂りたる。此下にこそ有るらめや。 地「さりとては人々此土を。かへして今一度。此世の姿を。母に見せさせ給へや。 歌「残りても。かひ有るべきは空しくて。〳〵。有るはかひなきはゝきゞの。見えつ隠れつ面影の。定めなき世の習ひ。人間うれひの花盛。無常の嵐音添ひ。生死長夜の月の影。不定の雲おほへり。実に目の前の憂き世かな。〳〵。 ワキ詞「今は何と御歎き候ひてもかひなき事。たゞ念仏を御申し候ひて。後世を御弔ひ候へ。 カヽル「既に月出で河風も。はや更け過ぐる夜念仏の。時節なればと面々に。鉦鼓を鳴らし勧むれば。 シテ「母は余りの悲しさに。念仏をさへ申さずして。唯ひれふして泣き居たり。 ワキ「うたてやな余の人多くましますとも。母の弔ひ給はんをこそ。亡者も喜び給ふべけれと。鉦鼓を母に参らすれば。 シテ「我子の為と聞けばげに。此身も鳧鐘を取り上げて。 ワキ「歎きをとゞめ声澄むや。 シテ「月の夜念仏もろともに。 ワキ「心は西へと一筋に。 二人「南無や西方極楽世界。三十六万億。同号同名阿弥陀仏。 地「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。 シテ「隅田河原の波風も。声立て添へて。 地「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。 シテ「名にしおはゞ。都鳥も音を添へて。 地、子方「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。 シテ詞「なふ〳〵今の念仏の内に。正しく我子の声の聞え侯。此塚の内にて有りげに候ふよ。 ワキ詞「我等もさやうに聞きて候。所詮此方の念仏をば止め候ふべし。母御一人御申し候へ。 シテ「今一声こそ聞かまほしけれ。南無阿弥陀仏。 子「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏と。 地「声の内より。幻に見えければ。 シテ「あれは我子か。 子「母にてましますかと。 地「互に手に手を取りかはせば。又消え〳〵となり行けば。いよ〳〵思ひは増鏡。面影も幻も。見えつ隠れつする程に。東雲の空もほの〴〵と。明け行けば跡絶えて。我子と見えしは塚の上の。草茫々として唯。しるしばかりの浅茅が原と。なるこそあはれなりけれ。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著