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清閑寺


ワキ 叡山の僧
シテ 里女


ワキ 前に同じ
シテ 小督局

地は 山城
季は 秋

ワキ詞「是は比叡山より出でたる僧にて候。秋も末になり候へば。時雨に染むる紅葉の色。さま〴〵なるが面白さに。我立つ杣の山伝ひ。音羽の峰に出でゝ候。又是なる山陰にひそかなる寺の見えて候ふは。承り及びたる清閑寺にて有りげに候。立ち越え一見せばやと思ひ候。
サシ「我此寺に来て見れば。さすがに都遠からで。かゝる霊地のありけると。知らでぞたゞに過しつる。
歌「年月の。古き寺井は水澄みて。〳〵。流れの末も濁りなき。御代のためしに引きなれし。御裳濯川もかくやらん。げに面白や斧の柄も。此山陰に朽ちぬべし。〳〵。
詞「あら不思議や間近う琴の音の聞え候。慕ひて聞かうずるに候。
シテ女「今日は嵐の烈しくて。且つ散りそむるもみぢ葉を。かき改めて陵の。あたりを清め奉り。玉の小琴をかきならし。
地「比翼連理の語らひも。変はれば変はる世の習ひ。とにかくに恨めしや。飽かぬ別れの中々に。会者定離と聞く時は。兼ねてしるき理り。春の花も散り果てゝ。猶も卯月の若楓。秋は紅葉に染めなして。錦おりかく神無月の。山風に誘はれ。庭に散り敷くもみぢ葉を。かき集め林間に。酒暖めて紅葉は。煙と立ちのぼる。生者必滅の理りや。生者必滅の理り。
ワキ「如何に是なる女性に尋ぬべき事の候。
シテ「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。
ワキ「是なる塚に植ゑられたる紅葉は。取り分け色深く候。見申せば塚のあたりを懇ろに清め。琴を調べ給ふは。何と申したる御事にて候ふぞ。
シテ「さん候是は高倉院の御廟にて候。紅葉にめでさせ給ふにより。紅葉の君と申し習はし候。されば御しるしに楓を植ゑられて候。又是なる塚は小督の局のしるしなり。わらはも小督のゆかりなれば。折々琴をかきならし。御廟を清め奉り候。
ワキ「さては御名も世の中に。高倉院の御廟と聞くとも。不思議やあたりを見渡せば。並ぶ御廟もなき山に。いかで納まり給へるぞ。委しく語り給ふべし。
シテ「さらば語つて聞かせ申し候ふべし。さても高倉院御在位の御時。小督の局行方知らずなり給ひしかば。たゞひたすらの御歎きに。御命も危く見えさせ給ひしに。東山清閑寺に小督ありと聞し召され。我むなしくなりにし後は。此寺に葬り申せとの。御遺言を違へず此所に納めしなり。されば小督の局毎日花水を捧げ。琴をならして手向をなし。其後に小督も空しくなり給へば。憚ながら御廟のほとりに。かくしるしを立てしなり。浅からざりし御契り。短き夢と覚めはてゝ。昔語ぞ恨めしき。
下歌地「げにや高きも賤しきも。なほ定めなき世のためし。
上歌「むかしは玉楼金殿の。〳〵。床を磨きて起臥の。今は紅葉の散り敷くや。是ぞ錦の御蓐。山風はげしき折々は。音楽を奏す心地して。絶えず流るゝ谷水の。外に音する人ぞなき。かくて夕日も傾けば。〳〵。暇申して琴の音を。又かきならしかきならし。たつや錦の村紅葉の。散りのまぎれに。かき消すやうに失せにけり。〳〵。(中入)
ワキ詞「さては小督の幽霊かりに顕はれ。我にま見え給ひけるぞや。
歌「猶も奇特を深山辺の。〳〵。松も木深き月影に。早くもしるき琴の音の。嵐につれて聞ゆなり。〳〵。
後ジテ「琴の音に嶺の松風通ふらし。何れの緒より調べそめけん。
ワキ「不思議やな夜も更方の月影に。爪音けだかき琴の音の。さも面白く聞ゆるは。小督の局にてましますか。
シテ「さも恥かしき我姿。春を忘れぬ花の袖。
ワキ「恨みながらに打ち返し。猶も昔を語り給へ。
シテ「今宵は風もをさまりて。名にし負ひたる寺の名も。
ワキ「清く静けき谷水の。
シテ「音羽の山も嶺つゞき。月も隈なき霊地かな。
クリ地「それ一栄一落の世の習ひ。昔の春の花盛。並ぶ梢もなき身にて。連理の契り浅からず。三千の寵愛一身にあり。
シテサシ「かくたぐひなき御語らひ。平相国に漏れ聞え。
地「たばかり我を失はん。所存と聞きて烏羽玉の。夜半にまぎれて忍び出で。嵯峨野の奥に身を隠す。
シテ「主上は思ひに打ち臥し給ひ。
地「秋も最中の月にだに。御格子なども上げられず。深く涙に沈ませ給ふ。
クセ「さる程に仲国は。寮の御馬を賜はりて。名月に鞭をあげて。駒を早め行く程に。嵯峨野の里の何くにか。忍び給ふと賤の屋の。片折戸をしるべにて。駒をひかへて嵐ふく。松の響か琴の音か。それかあらぬか聞き分かぬ。時雨する夜も時雨せぬ。雲霧も立ち晴れて。空も隈なき秋の夜の。月にあくがれ出で給ふと。法輪に参れば。さてこそしるき琴の音の。楽は何ぞと聞き馴れし。想夫恋なるぞ嬉しき。
シテ「かゝる山路の末までも。忍ばせ給ふ御情。有難し〳〵。いつの世にかは忘草。摘むともかひあらじ。岸に生ふてふ住吉の。松とし聞けば帰らんと。いらへ申せし水茎を。受けて喜ぶ仲国は。雲の上にぞ帰りける。百敷や。(舞)
シテ「百敷や。古き軒端の忍ぶにも。
地「あまりて漏るゝ昔語や。
シテ「かくて夜もはや明方の。
地「かくて夜もはや明方の雲も。山の端に横ぎる。さも面白き。月の夜の明ぼの。是までなりと又陵の。前にたゝずみ。
シテ「想夫恋の。
地「楽の手を尽し。
シテ「さるにても〳〵。
地「昔恋しや。
シテ「此君に。
地「飽かで別れし恨の末は。めい〳〵として。絶ゆる期もなかるべし。暇申してさらばとて。かへす袂にうつるや陵の。しるしの紅葉を立ちめぐる。天津乙女の姿もとゞまらぬ。雲の通路中絶え果てゝ。其まゝ夢とぞなりにける。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著

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