関原与市
シテ 源牛若 トモ 従者 ワキ 関原与市 ワキヅレ 従兵 地は 美濃 季は 雑 シテ、トモ次第「身は定めなきうたかたの。〳〵。消えぬぞ恨みなりける。 シテサシ「是は義朝の末の子。牛若とは我事なり。さても平家の栄え。安芸の守清盛が子供。一寺の賞翫他山の覚え。立ち交はるも憚りなれば。東とかやに下らんと。 下歌「忍びて出づる鞍馬寺。 上歌「心尽しの春の夜の。行方も知らぬ旅衣。消えぬ限りは白雲の。野山を分けて美濃の国。山中に早く着きにけり。〳〵。 トモ詞「是より東へは程遠く候ふ程に。御心静かに御下向あれかしと存じ候。 シテ詞「さらば心静かに下らうずるにて候。 トモ「えい何と申すぞ。関原与市美濃の国中川の庄を賜はり。唯今入部仕ると申すか。や。是は一大事の御事にて候ふ間。よく〳〵御忍びあれかしと存じ候。 シテ「さらば深く忍ばうずるにて有るぞ。此方へ来り候へ。 ワキ、ツレ一声「山風の。声吹き立てゝ行く道の。音は嵐の花の雪。 ワキ詞「そも〳〵是は関原与市とは我事なり。さても美濃の国中川の庄を賜はり。今日入部仕り候ふ所に。在所に柵を引き城郭を構ふるよし承り候ふ間。唯今手勢七十騎を以て。彼在所へ押し懸け候。さても当国中川の。其城郭を落さんと。 一同歌「まだ夜深きに関原の。〳〵。山の岩角踏み馴らし。駒うち続く武士の。猛き心を案内にて。急ぎて行けば程もなく。山中に早く着きにけり。〳〵。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は早山中と申す在所に着きて候。如何に誰かある。 ツレ詞「御前に候。 ワキ「是より中川へは程遠く候ふ程に。人馬に息をつかせ候へ。 ツレ「畏つて候。 シテ詞「不思議や見れば侍なるが。旅の衣に馬の蹴上を懸くる事。存外あまりの振舞なり。いかに与市。其馬乗り得ずは。下りて下人に牽かせ候へ。 トモ「如何に申し上げ候。あれなる冠者が申す事は。与市殿の御馬。其馬乗り得ずは。下りて下人に牽かせよと申し候。 ワキ「何と申すぞ。急ぎ其冠者討ち取つて。今日の軍の血祭にせよと。与市が下知に随つて。 地「究竟の兵七十余騎。切先を揃へて切つて懸かれば。牛若少しも騒がずして。静々と太刀抜きそばめ。敵を手近く待ちかくれば。我も〳〵とかゝる敵を。弓手に切り伏せ馬手に切り伏せ。小鳥稲妻石の火の。見あへぬ程に切り給へば。嵐に木の葉の散るが如く。大勢は乱れ散つて。四方へばつとぞ逃げたりける。 地「其時与市は怒りをなして。〳〵。物々しあれ程の。小性ひとりを。手並にいかで洩らすべきと。駒駆け寄せてえいやと打つ太刀を。飛びちがひ斬り落し。駒引き寄せてゆらりと打ち乗り。太刀指しかざし。我は知らずや源の。牛若と名乗り罵り。美濃の中道。東路さしてぞ下りける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著