赤壁
前 ワキ 黄州の傍の人 シテ 老人 後 ワキ 前に同じ シテ 鶴 地は 唐土 季は 七月 ワキ詞「是は唐黄州の傍に住居する者にて候ふが。こゝに赤壁山とて名所の候。是は古へ東坡居士の遊興せられたる処と申し候ふ間。此度思ひ立ち一見せばやと存じ候。 サシ「頃は初秋の十日あまり。残る暑さの甚しければ。まだ夜をこめて東雲の。 歌「影ともに。思ひ立つなる旅衣。〳〵。聞きし名所ながめんと。野暮れ山暮れ里暮れて。行けば程なく名にし負ふ。赤壁に早く着きにけり。〳〵。 シテ一声「古へを。思ひ出づるの悲しきに。泣けども空に。知る人ぞなき。 ワキ「如何に是なる老人。御身は此処の人か。 シテ「さん候此処に年久しく住む者にて候。 ワキ「処の人にてましまさば。名所旧跡教へて賜はり候へ。 シテ「安き間の事御尋ね候へ教へ申し候べし。 ワキ「まづ西に見えたる県は何と申し候ぞ。 シテ「あれは江夏県と申し候。 ワキ「さて又東に当つて。山川相繆つて木深き陰の見えたるは。如何なる処にて候ふぞ。 シテ「あれこそ武昌県と申して。古へ魏の武帝の。周郎にたしなめられし処にて候ふさりながら。武帝は文武の達者にて。其荊州を破りし時は。千里に舟を浮べ旌旗空を蔽ふそれのみか。矛を横たへて詩を賦し給ひし人なれども。今は昔になり果てゝ。故もゆかりも亡き跡や。 ワキ「さて其後に東坡居士。暫く舟を浮べつゝ。遊び給ふも此所か。 シテ「中々なれや黄州に。流され給ひし其昔。世上の憂きを忘れんと。しば〳〵来りて舟を浮べ。 ワキ「月の友人諸共に。 シテ「或は詩を賦し歌を歌ひ。 地「夜遊をなして夜もすがら。〳〵。酒を挙げ客に属し。文を書く粧ひ。其才超然と越え勝れ。たぐひ稀なる智識なり。誠に塵を出で俗を絶ち。雲に乗り風を御す。神仙の境界も。かくやと思ひ知られたり。〳〵。 ワキ詞「猶々東坡居士の赤壁を賦せられしやうを御物語り候へ。 クリ地「昔元豊の頃。初秋の今宵うらなき友を誘ひ。同じく舟を浮べて赤壁に遊ぶ。 サシ「折しも風そよ〳〵と来て波もなく。 地「酒を挙げて諸共に。明月の詩を口ずさび。窈窕の章を歌ふ。 クセ「暫くありて。月は東の山の端に。ほの〴〵と晴れやかに。星のまに〳〵立ち渡る。身に白露のおのづから。江に横ぎりて水の光。空色にまじはる。蘆の折葉の。おのがまゝにや流るらん。風和らかに吹き送り。とゞまる方も知らばこそ。飄々と世を忘れ。仙を得たるが如くなり。盃も重なれば。舷をたゝいて。謡ひ奏で戯るゝ。桂の櫂蘭の楫。そことなく棹さして。波のうね〳〵押し渡る。心も空に面白や。 シテ「其中に客人。笛竹を調べつゝ。 地「歌に和らげて。吹き合はせ〳〵。其声の妙なるや。恨むるが如く又。慕ひ泣くに異ならず。余音よわ〳〵と。絶えざる事。糸筋のいと深き。深谷の底の鱗も。やゝ立ち舞はんばかりなり。ひとり漕がるゝ海人小舟。綱手悲しむ理り。誠知られて客人も。盃を洗ひて。夜もすがら共に汲む程に。東雲もしら〳〵と。はやあさまにやなりなん。 ワキ詞「かやうに委しく語り給ふ。御身は如何なる人やらん。 シテ「今は何をか包むべき。我は夢中の道士なるが。今宵の月の面白さに。姿をかへて来りたり。 ワキ「そもや夢中の道士とは。さてはそのかみ東坡居士の。後の遊びに伴ひし。玄裳縞衣の仙禽なるか。さあらば後の遊びの有様。是また語り給ふべし。 シテ「げに〳〵後の遊びといふも。同じき年の十月の望。 ワキ「雪堂よりも臨皐に。帰りし時の事かとよ。 シテ「折ふし霜露既に降りて。木の葉も落ちて月清く。 ワキ「風も涼しき夕暮に。二人の友は網をあげて。魚を得たりと喜べば。 シテ「東坡は之を見るよりも。酒はありやと婦に問へば。 ワキ「中々の事斗酒ありと。 シテ「聞くよりも又。 ワキ「赤壁に。 地「遊べば流れも声ありて。〳〵。切岸も高く聳え。万代も尽せぬ巌に。登り嘯けば。山も鳴り谷響き。すさましければ立ち帰り。又舟に取り乗り。風のまに〳〵たゞよひて。歌ひ楽しむ折から。我も来りて舞ふなり。暫く待たせ給ふべし。誠の姿顕はさんと。いふかと見れば其人は。其まゝ見えずなりにけり。〳〵。(中入) ワキ詞「さては只今の老人は。疑もなく赤壁に。住みて久しき仙禽なるぞや。 歌「今とても。忘れず来鳴く老鶴の。〳〵。昔の名をも名乗りける。その言の葉を違へじと。夢も結ばず待ち居たり。〳〵。 後ジテ「漢に叫んでは遥に驚かす孤枕の夢。風に和してはみだりに入る五絃の弾。 地「すはや此夜も半ば過ぎて。四方の気色も淋しきに。風に臨んで盤旋と飛びめぐる。姿は車輪の如くなるが。天を響かす千代の声々。まのあたりなる奇特かな。 ワキ「不思議やな月も隈なき水の面に。東より来るものを見れば。玄裳縞衣の仙禽なり。其名に聞えし舞をまひ。夜すがら我に見せ給へ。 シテ「仰に随ひ舞はんとて。翅を伸べて拍子にあて。 ワキ「戛然と鳴いて。 シテ「舞ふとかや。千年ふる。鶴の住むなる江の水は。 地「波の立つさへのどかなり。(舞) 地「舞の羽衣ひるがへし。〳〵。幾千世までも限らじと。くりかへし〳〵舞ひ遊べば。二人の友も立ち去りて。東坡も眠りに就き給へば。赤壁の楽しみ塵外の遊び。是までなりといふかと思へば。岩根の松に飛びかけり。岩根の松に飛びかけつて。雲井遥かにあがりけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著