殺生石
佐阿弥作 前 ワキ 玄翁和尚 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ シテ 狐 地は 下野 季は 秋 ワキ次第「心をさそふ雲水の。〳〵。浮世の旅に出でうよ。 詞「是は玄翁といへる道人なり。我知識の床を立ち去らず。一大事を歎き一見所を開き。終に拂子を打ち振つて世上に眼をさらす。此程は奥州に候ひしが。都に上り冬夏をも結ばゝやと思ひ侯。 道行「雲水の。身はいづくとも定めなき。〳〵。浮世の旅に迷ひゆく。心の奥を白河の。結びこめたる下野や。奈須野の原に着きにけり。〳〵。 シテ詞「なふ其石の辺へな立ち寄らせ給ひそ。 ワキ詞「そも此石のほとりへよるまじき謂の候ふか。 シテ「それは奈須野の殺生石とて。人間は申すに及ばず。鳥類畜類までもさはるに命なし。かく恐ろしき殺生石とも。知し召されで御僧達は。求め給へる命かな。そこ立ちのき給へ。 ワキ「さて此石は何故かく殺生をばいたすやらん。 シテ「むかし鳥羽の院の上童に。玉藻の前と申しゝ人の。執心の石と為りたるなり。 ワキ「不思議なりとよ玉藻の前は。殿上の交はりたりし身の。此遠国に魂を。留めし事は何故ぞ。 シテ「それも謂のあればこそ。昔より申し習はすらめ。 ワキ「御身の風情言葉の末。いはれを知らぬ事あらじ。 シテ「いや委しくはいさ白露の玉藻の前と。 ワキ「聞きし昔は都住居。 シテ「今たましひは天離る。 ワキ「鄙に残りて悪念の。 シテ「猶もあらはす此野辺の。 ワキ「往来の人に。 シテ「仇を今。 地「奈須野の原に立つ石の。〳〵。苔に朽ちにし跡までも。執心を残し来て。又立ち帰る草の原。物すさましき秋風の。梟松桂の。枝に鳴きつれ。狐蘭菊の花に隠れ住む。此原の時しも。物すごき秋の夕べかな。 地クリ「そも〳〵此玉藻の前と申すは。出生出世定まらずして。いづくの誰とも白雲の。上人たりし身なりしに。 シテサシ「然れば紅色を事とし。 地「容顔美麗なりしかば。帝の叡慮浅からず。 シテ「ある時玉藻の前が智恵をはかり給ふに。一事とゞこほる事なし。 地「経論聖教和漢の才。詩歌管絃に至るまで。問ふに答への暗からず。 シテ「心底くもりなければとて。 地「玉藻の前とぞ召されける。 クセ「或時帝は清涼殿に御出なり。月卿雲客の。堪能なるを召し集め。管絃の御遊ありしに。頃は秋の末。月まだ遅き宵の空の。雲の景色すさましく。うちしぐれ吹く風に。御殿の灯消えにけり。雲の上人立ち騒ぎ。松明とくと進むれば。玉藻の前が身より。光りを放ちて。清涼殿を照らしければ。ひかり大内に満ち〳〵て。画図の屛風萩の戸。闇の夜の錦なりしかど。光りにかゝやきて。ひとへに月の如くなり。 シテ「帝それよりも。御悩と為らせ給ひしかば。 地「安倍の泰成占なつて。勘状に申すやう。是はひとへに。玉藻の前が所為なりや。王法を傾けんと。化生して来りたり。調伏の祭あるべしと。奏すれば忽に。叡慮もかはり引きかへて。玉藻化生を本の身に。奈須野の草の露と。消えし跡は是なり。 ワキ詞「かやうに委しく語り給ふ。御身はいかなる人やらん。 シテ詞「今は何をか包むべき。其古へは玉藻の前。今は奈須野の殺生石。其石魂にて候ふなり。 ワキ「実にや余りの悪念は。かへつて善心となるべし。然らば衣鉢を授くべし。同じくは本体を。再び顕はし給ふべし。 シテ「あら恥かしや我姿。昼は浅間の夕煙の。 地「立ち帰り夜になりて。〳〵。懺悔の姿あらはさんと。夕闇の夜の空なれど。此夜は明し灯の。我影なりと思し召し。恐れ給はで待ち給へと。石に隠れ失せにけりや。石に隠れ失せにけり。(中入) ワキ「木石心なしとは申せども。草木国土悉皆成仏と聞く時は。本より仏体具足せり。況んや衣鉢を授くるならば。成仏疑ひあるべからずと。花を手向け焼香し。石面に向つて仏事をなす。汝元来殺生石。問ふ石霊。何れの所より来り。今生かくの如くなる。急々に去れ去れ。自今以後汝を成仏せしめ。仏体真如の善心となさん。摂取せよ。 後ジテ「石に精あり水に音あり。風は大虚に渡る。 地「形を今ぞ顕す石の。二つに割るれば。石魂忽ち顕れ出でたり。恐ろしや。 ワキ「不思議やな此石二つに割れ。光りの内をよく見れば。野干の形は有りながら。さも不思議なる仁体なり。 シテ「今は何をか包むべき。天竺にては班足太子の塚の神。大唐にては幽王の后褒姒と現じ。我朝にては鳥羽の院の。玉藻の前とは為りたるなり。 詞「我王法を傾けんと。仮に優女の形となり。玉体に近づき奉れば御悩となる。既に御命を取らんと悦びをなしゝ処に。安倍の泰成調伏の祭を始め。壇に五色の幣帛を立て。玉藻に御幣を持たせつゝ。肝胆をくだき祈りしかば。 地「やがて五体を苦しめて。〳〵。幣帛をおつ取り飛ぶ空の。雲井を翔り海山を。越えて此野に隠れ住む。 シテ「其後勅使立つて。 地「其後勅使立つて。三浦の介上総の介。両人に綸旨をなされつゝ。奈須野の化生の者を。退治せよとの勅を受けて。野干は犬に似たれば。犬にて稽古あるべしとて。百日犬をぞ射たりける。是れ犬追物の始めとかや。 シテ「両介は狩装束にて。 地「両介は狩装束にて。数万騎奈須野を取り込めて。草を分つて狩りけるに。身を何と奈須野の原に。顕はれ出でしを狩人の。追つゝまくつゝさくりにつけて。矢の下に射伏せられて。即時に命を徒に。奈須野の原の露と消えても。猶執心は此野に残つて。殺生石と為つて。人を取る事多年なれども。今逢ひがたき御法を受けて。此後悪事をいたす事。あるべからずと御僧に。約束固き石と為つて。〳〵。鬼神の姿は失せにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著