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摂待

宮増作

ワキ 武蔵坊弁慶
シテヅレ 兼房鷲尾外同行山伏一同
子方 佐藤鶴若
トモ 佐藤従者
シテ 佐藤継信母
シテヅレ(判官) 源義経

地は 陸奥
季は 雑

ワキ次第「旅の衣は篠懸の。〳〵。露けき袖やしをるらん。
歌「子に臥し寅に起き馴れて。〳〵。雲井の月を峰の雪。其松島に参らんと。東路さして急ぎけり。〳〵。
ワキ詞「如何に申し候。まづ此所に御休みあらうずるにて候。
兼房詞「承り候。や。是に高札の立ちて候ふ御覧候へ。
ワキ「なになに佐藤の館に於て。山伏摂待と候。やがて御着き候へ。
兼房「佐藤の館に於て。山伏摂待の事は我等が望む所なれども。佐藤の館が憚りにて候ふ程に。御通りあれかしと存じ候。
ワキ「是は仰せにて候へども。唯知らぬやうにて御着きあらうずるにて候。
子「如何に誰かある。
トモ詞「御前に候。
子「山伏達は幾人御着きあるぞ。
トモ「十二人御着きにて候。
子「まづ〳〵出でゝ対面申し候ふべし。
ワキ詞「是なる幼き人は誰が御子息にて渡り候ふぞ。
子詞「是は佐藤継信が子にて候。
ワキ「さて継信殿は御内に御座候ふか。
子「判官殿の御供申し。八島の合戦に討たれて候。
ワキ「さて此摂待は如何なる人の御企にて候ふぞ。
子「判官殿十二人の山伏となり。奥へ御下りの由承り候ふ程に。祖母にて候ふ者此摂待を始めて候。見申せば方々こそ十二人御入り候へ。もし判官殿にては御座なく候ふか。
ワキ「暫く候。かゝる疎忽なる事を承り候ふ物かな。まづ〳〵御内へ御入り候へ。さればこそ御大事にて候。恐れながら御座を替へられ。皆々の中にうち交り御座候へかしと存じ候。
判官「実に是は尤にて候。
シテ「如何に鶴若。
子「何事にて候ふぞ。
シテ詞「山伏達は幾人御着き有るぞ。
子「十二人御着き候。
シテ「かしまし〳〵。
一声「旧里を出でし鶴の子の。松に帰らぬ淋しさよ。
サシ「実にや憚りある身として。御前に参りてさぶらへば。かつうは亡き人の名をも朽たし。又は子供のいにしへの。恥をも顕はすにてはさぶらへども。余りに御なつかしき心ばかりにて。御前に参りて候ふなり。是は故佐藤庄司が後家。継信忠信が母にて候。実にや親子恩愛の別れの余りには。包むべき人目をも知らず。又は憂き身の恥をも。顕はすにては候へども去りながら。此摂待と申すに。現世の祈の為めにも非ず。後生善所とも思はず。嫡子継信は八島にて討たれ。弟忠信は都にて失せけるとばかりにて。委しき事をも知らずして。ひとり悲しむ身を知る雨の。晴れぬ心や慰むと。此摂待を始めて候。札を立てゝより此方。一日に五人三人。乃至一人二人。絶ゆる事はましまさねども。十二人は是が始めにて候。いづれか我君ぞ。何れか其にてましますぞ。夜も更けたり。人の知るべき事にもあらず。此姥が耳にそと御教へ候はば。この摂待の利生にて。
下歌地「空しくなりし兄弟を。再び見ると思ふべし。
上歌「親子よりも主従は。〳〵。深き契りの中なれば。さこそ我君も。哀れと思し召すらめ。殊更御為めに。命を捨てし郎等の。ひとりは母ひとりは子なり。などや弔ひの。御言葉をも出だされぬ。かほど数ならぬ。身には思ひの無かれかし。あら恨めしの憂き世や。〳〵。
ワキ詞「是は思ひもよらぬ事を承り候ふ物かな。我等如きの山伏の。五人三人行き連れ〳〵通り候ふが。今夜此摂待に十二人着きたればとて。判官殿とはかゝる疎忽なる事を承り候ふ物かな去りながら。継信忠信の母にてましまさば。判官殿の御内の人の名字をば御存じ候ふべし。そなたより名を指して承り候ふべし。
シテ詞「仰せの如く我子は御内に有りし者なれば。大方は推量申すとも。さのみはよも違ひ候はじ。
兼房詞「かやうに物申す山伏をば。どこ山伏と御覧じて候ふぞ。
シテ「まづ唯今物仰せられつる客僧は。此御供の内にては一の老体にて御入り候ふな。いで此御供の内に年よりたる人は誰そ。や。今思ひ出だしたり。判官殿の御めのと。増尾の十郎権の頭。兼房山伏にてましますな。又あれなる山伏はどこ山伏にて御渡り候ふぞ。
鷲尾詞「是は出羽の羽黒山より出でたる客僧にて候。
シテ「いや是は播磨の人の声にて候。それを如何にと申すに。此姥はもと播磨の者。十三の年継母を恨み都に上り。故庄司殿と契り。継信忠信を設け。今かく憂き目を見候へば。唯恨めしうこそ候へ。されば我国の人の声なれば。などかは知らで候ふべき。いで此御供の内に播磨の人は誰そ。是も思ひ出だして候。判官殿鵯越とやらんを通り給ひし時。狩人の姿にて参りあひ。其まゝ名字賜はり。今までも御供と聞えし。鷲尾の十郎山伏にて御渡り候ふな。
ワキ「さてかう申す山伏をば。どこ山伏と知し召されて候ふぞ。
シテ「此御声こそ大事にて候へ。都の人の声かと思へば。又近江の人の声にも似たり。物仰せられ候ふも何とやらん物々しく見え給ひて候。あつぱれ是は西塔山伏ごさめれ。それならば本は近江の人。三塔一の遊僧。今は又我君の。一人当千の武士よなふ。
地「武士も。物の哀れは知る物を。などされば余りに。御心強くましますぞ。明かさせ給へ人々と。よそ目も知らず泣き居たり。人目も知らず泣き居たり。
子詞「かく心もなき人々に。さのみ言葉を尽し給はんより。今は早御内へ御入り候へ。
判官詞「暫く候。誠継信の御子ならば。判官殿とおぼしきを指し給ひ候へ。
子「承りて候ふとて。十二人の山伏の。皆御顔を見渡して。是こそ其にておはしませ。
判官「さて其にてあるべきとは何故に仰せ候ふぞ。
子「いや如何に包ませ給ふとも。人にかはれる御粧ひ。疑ひもなき我君よ。
地「父給べなふとて走り寄れば。岩木を結ばぬ義経なれば。泣く〳〵膝に懐き取る。実にや栴檀は。二葉よりこそ匂ふなれ。誠に継信が子なりけりと。よその見る目まで。皆涙をぞ流しける。
ワキ詞「今は何をか隠し申すべき。我君にて御座候。此上は御座を直され候へ。老尼も近う御参り有つて御目にかゝり申され候へ。
シテ詞「あら有難や候。我君を拝み参らするにつけて。子供の事こそ思ひ出でられて候へ。
ワキ「実に〳〵尤にて候。
シテ「如何に申し上げ候。継信が八島にての最期の有りさま。剛なりとも申し。又不覚なりとも申す。何れか誠にて候ふやらん承りたく候。
判官詞「如何に弁慶。
ワキ「御前に候。
判官「継信が八島にての最期の様を。委しく語つて老尼に聞かせ候へ。
ワキ「畏つて候。御諚と申し所望と云ひ。懇に語つて聞かせ申し候ふべし。御前近う御参り候へ。
物語「さても八島の合戦。今はかうよと見えしに。門脇殿の二男能登の守教経と名乗つて。小船に取り乗り磯まぢかく漕ぎ寄せ。如何に源氏の大将源九郎義経に。矢一筋参らせん受けて見給へと罵る。かう申す各を始めとして。皆御矢面に立たんとせしが。何とやらん心おくれたりし所に。継信は心まさりし剛の人にて。御馬の前にかけ塞がつて。義経これに在りやとてにつこと笑ひて扣へたり。さて其時に教経は。引き設けたる弓なれば。矢坪を指してひようと放つ。過たず継信が着たりける。鎧の胸板押しつけ上巻。かけずたまらずつゝと射通し。後に扣へ給ふ我君の。御着背長の草摺にはつたと射留む。さて其時に継信は。馬の上にて乗り直らんとせしかども。大事の手なれば堪へずして。馬より下にどうと落つ。やがて我君御馬を寄せ。継信を陣の後に舁かせ。如何に継信。如何に〳〵と宣へども。たんだ弱りに弱つて終に空しくなる。なんぼう面目もなき物語にて候。
シテ詞「さて其時に弟の忠信は候はざりけるか。
ワキ「あら愚や忠信は。日の下に於て隠れましまさず。能登殿の童菊王丸。継信が首を目懸け渚の方に走り渡るを。忠信引いて放つ矢に。菊王が真中射通されかつぱと転べば。教経舟より飛んでおり。菊王がわだ髪つかんで。遥の船に投げ入れ給へば。程なく舟にて空しくなる。眼前兄の敵をば。弟の忠信こそ取つて候へ。
シテ「さては敵も大将に。仕へ申しゝ御童。
ワキ「継信は又我君の。秘蔵におぼせし御内の人。
シテ「彼は平家の舟の内。
ワキ「此方は源氏の陸の陣。
シテ「彼も主従。
ワキ「是も主従。
シテ「思ひは同じ思ひなれば。
ワキ「よその歎きを思ひ合はせて。御慰みも候へとよ。
シテ「それは仰せまでもさぶらはず。御身がはりに立ち参らする上は。今世後世の面目なり。さりながら一人なりとも御供申し。御笈をも肩にかけ。此御座敷にあるならば。
地「十二人の山伏の。十三人も連なりて。唯今見ると思はゞ。いかゞは嬉しかるべき。
クセ「其時義経。老尼に語り給ふやう。八島にて継信。今はかうよと見えし時。思ふ事あらば。委しく言ひ置けと。くれ〴〵尋ね問ひしに。継信其時に。息の下より申すやう。弓矢取る身の。御身がはりに立つ事。二世の願ひや三世の。御恩を少し報謝する。命の軽き身は。露塵何か惜しからん。さりながら故郷に。八旬に及ぶ母と。十に余る童部。是等が事の不便さぞ。少し心にかゝる雲の。月に覆ひて。光も闇くなる如く。其まゝくれ〳〵と。終に空しくなりにけり。
判官「かやうに郎等を討たせつゝ。
地「自ら手をくだき。忠勤まこと曇らずは。終に治まる世に出でゝ。継信忠信が。子孫を尋ね出だして。命の恩を報ぜんと。思ひし事も空しく。我さへかゝる姿にて。其名をだにも名乗り得ぬ。憂き身の果ぞ悲しき。
シテ「母は思ひに堪へ兼ねて。更くるも知らず有明の。月の盃取り出だし。御酌にこそ参りけれ。
判官「実にや心を汲みて知る。人の情の盃を。涙と共に受けて持つ。
子「鶴若酌に立ちかはり。別れし父の御前にて。給仕すると思ひなして。
地「十二人の山伏の。終夜の酌を取り廻り。座敷にも直らで。進み勇める有様を。父に見せばやとぞ思ふ。
地「さる程に。夜もほの〴〵と明け行けば。〳〵。暇申してさらばとて。はや此宿を立ち出づる。
子「如何に誰かある馬に鞍置き。弓靭まゐらせよ。君の御供申さうずるに。
シテ「そも御供とは何事ぞ。
子詞「君の御供申してこそ。親の敵にも逢ふべけれ。
シテ「それは弓矢の御供なり。是は修行の山伏道に。何の敵のあるべきぞ。
子「さあらば思ひ出だしたり。小さき兜巾篠懸を。とく拵へて給び給へ。山伏道の御供せん。
ワキ詞「弁慶涙を押さへつゝ。如何に申さん鶴若殿。まこと御供有りたくは。今日は道具を拵へ給へ。明日は迎ひに参るべし。
子「まことざふか。
ワキ「中々に。
ツレ「我も迎ひに参るべし。
ワキ「我も迎ひに参らんと。
地「面々声々にすかされて。いとけなき身の悲しさは。誠ぞと心得て。少し言葉の弱りたる。をりを得て客僧は。泣く〳〵宿を出でければ。
シテ「老尼は鶴若を抱き入れ。
地「行くは慰む方もあり。留まるや涙なるらん。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著

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