能「蟬丸」の詞章とともに、「今昔物語集 巻廿四第廿三 源博雅朝臣行会坂盲許」を掲載しています。
併せて内容の把握にお役立てください。

 

冊子型のPDFファイルをダウンロードしていただけます。
プリントアウトの上、中央を山折りにし、端を綴じてご活用ください。

 

 

 

 

蟬丸 古名 逆髪

世阿弥作

ワキ 官人
ツレ 蟬丸の宮
シテ(女) 逆髪の宮

地は 近江
季は 雑

ワキ次第「定めなき世の中々に。〳〵。憂き事や頼みなるらん。
ワキ「是は延喜第四の御子。蟬丸の宮にておはします。実にや何事も報い有りける浮世かな。前世の戒行いみじくて。今皇子とは為り給へども。襁褓の内よりなどやらん。両眼盲ひまし〳〵て。蒼天に月日の光りなく。闇夜に灯暗うして。五更の雨も止む事なし。明かし暮らさせ給ふ所に。帝如何なる叡慮やらん。密に具足し奉り。逢坂山に捨て置き申し。御髪をおろし奉れとの。綸言出でゝ帰らねば。御痛はしさは限りなけれども。勅諚なれば力なく。
下歌「足弱車忍路を。雲井のよそに廻らして。
上歌「東雲の。空も名残の都路を。〳〵。今日出で初めて又いつか。帰らん事も片糸の。よるべなき身の行方。さなきだに世の中は。浮木の亀の年を経て。盲亀の闇路たどり行く。迷ひの雲も立ちのぼる。逢坂山に着きにけり。〳〵。
蟬丸詞「如何に清貫。
ワキ詞「御前に候。
蟬丸「さて我をば此山に捨て置くべきか。
ワキ「さん候宣旨にて候ふ程に。是までは御供申して候へども。何くに捨て置き申すべきやらん。さるにても我君は。尭舜より此方。国を治め民を憐れむ御事なるに。かやうの叡慮は何と申したる御事やらん。かゝる思ひもよらぬ事は候はじ。
蟬丸詞「あら愚の清貫が言ひ事やな。本より盲目の身と生るゝ事。前世の戒行拙き故なり。されば父帝も。山野に捨てさせ給ふ事。御情なきには似たれども。此世にて過去の業障を果し。後の世を助けんとの御謀。是こそ誠の親の慈悲よ。あら歎くまじの勅諚やな。
ワキ詞「宣旨にて候ふ程に。御髪をおろし奉り候。
蟬丸詞「是は何と云ひたる事ぞ。
ワキ「是は御出家とてめでたき御事にて渡らせ給ひ候。
蟬丸「実にやかうくわん髻を切り。半だんに枕すと。唐のせいしが申しけるも。かやうの姿にて有りけるぞや。
ワキ「此御有様にては。中々盗人の恐れも有るべければ。御衣を賜はつて簑と云ふ物を参らせ上げ候。
蟬丸「是は雨による田簑の島とよみ置きつる。簑と云ふ物か。
ワキ「又雨露の御為めなれば。同じく笠を参らする。
蟬丸「是は御侍御笠と申せとよみ置きつる。笠と云ふ物よなふ。
ワキ詞「又此杖は御道しるべ。御手に持たせ給ふべし。
蟬丸「実に〳〵是も突くからに。千年の坂をも越えなんと。彼遍昭がよみし杖か。
ワキ「それは千年の坂行く杖。
蟬丸「こゝは所も逢坂山の。
ワキ「関の戸ざしの藁屋の竹の。
蟬丸「杖柱とも頼みつる。
ワキ「父帝には。
蟬丸「捨てられて。
地「かゝる憂き世に逢坂の。知るも知らぬも是見よや。延喜の皇子の。成り行く果てぞ悲しき。行人征馬の数々。上り下りの旅衣。袖をしをりて村雨の。振り捨て難き名残かな。〳〵。さりとては。いつを限りに有明の。尽きぬ涙を押さへつゝ。早帰るさに為りぬれば。皇子は跡に唯独り。御身に添ふ物とては。琵琶を抱きて杖を持ち。臥し転びてぞ泣き給ふ。〳〵。
シテサシ「是は延喜第三の御子。逆髪とは我事なり。我皇子とは生るれども。いつの因果の故やらん。心より〳〵狂乱して。辺土遠郷の狂人と為つて。翠の髪は空さまに生ひ上つて。撫づれども下らず。如何にあれなる童部どもは何を笑ふぞ。何我髪の逆さまなるがをかしいとや。実に〳〵逆さまなる事はをかしいよな。さては我髪よりも。汝等が身にて我を笑ふこそ逆さまなれ。面白し〳〵。是等は皆人間目前の境界なり。夫れ花の種は地に埋もつて千林の梢に上り。月の影は天にかゝつて万水の底に沈む。是等をば皆何れか順と見逆なりと謂はん。我は皇子なれども庶人に下り。髪は身上より生ひ上つて星霜を戴く。是皆順逆の二つなり。面白や。柳の髪をも風は梳るに。
地「風にも解かれず。
シテ「手にも分けられず。
地「かなぐり捨つるみての袂。
シテ「抜頭の舞かやあさましや。
地「花の都を立ち出でゝ。〳〵。憂き音に鳴くか鴨河や。末白河を打ち渡り。粟田口にも着きしかば。今は誰をか松坂や。関の此方と思ひしに。跡になるや音羽山の。名残惜しの都や。松虫鈴虫きり〴〵すの。鳴くや夕陰の山科の。里人も咎むなよ。狂女なれど心は。清滝川と知るべし。
シテ「逢坂の。関の清水に影見えて。
地「今や引くらん望月の。駒の歩も近づくか。水も走井の影見れば。我ながらあさましや。髪はおどろを戴き。黛も乱れ黒みて。実に逆髪の影うつる。水を鏡と夕波の。現なの我姿や。
蟬丸「第一第二の絃は索々として秋の風。松を払つて疎韻落つ。第三第四の宮は。我蟬丸が調べも四つの。折柄なりける村雨かな。あら心凄の夜すがらやな。世の中はとにもかくにも有りぬべし。宮も藁屋も果てしなければ。
シテ「不思議やな是なる藁屋の内よりも。撥音けたかき琵琶の音聞ゆ。そも是程の賤が屋にも。かゝる調べの有りけるよと。思ふにつけてなどやらん。世になつかしき心地して。藁屋の雨の足音もせで。ひそかに立ちより聞き居たり。
蟬丸「誰そや此藁屋の外面に音するは。此程をり〳〵とぶらはれつる。博雅の三位にてましますか。
シテ詞「近づき声をよく〳〵聞けば。弟の宮の声なりけり。なふ逆髪こそ参りたれ。蟬丸は内にましますか。
蟬丸「何逆髪とは姉宮かと。驚き藁屋の戸を明くれば。
シテ「さも浅ましき御有様。
蟬丸「互に手に手を取りかはし。
シテ「弟の宮か。
蟬丸「姉宮かと。
地「共に御名を木綿附の。鳥も音を鳴く逢坂の。せきあへぬ御涙。互に袖やしをるらん。
地クリ「夫れ栴檀は二葉より香ばしと云へり。ましてや一樹の宿りとして。風橘の香を留めて。花も連なる枝とかや。
シテサシ「遠くは浄蔵浄眼早離速離。近くは又応神天皇の御子。
地「難波の皇子菟道の皇子と。互に即位謙譲の御志。皆是れ連理の情とかや。
シテ「さりながらこゝは兄人の宿りとも。
地「思はざりしに藁屋の内の。一曲なくはかくぞともいかで調べの四つの緒に。
シテ「引かれてこゝによるべの水の。
地「浅からざりし契りかな。
クセ「世は末世に及ぶとても。日月は地に落ちぬ。習ひとこそ思ひしに。我等如何なれば。皇子を出でゝかくばかり。人臣にだに交はらで。雲井の空をも迷ひ来て。都鄙遠境の狂人。路頭山林の賤となつて。辺土旅人の。憐れみを頼むばかりなり。さるにても昨日までは。玉楼金殿の。床を磨きて玉衣の。袖引きかへて今日は又。かゝる所の臥所とて。竹の柱に竹の垣。軒も扃もまばらなる。藁屋の床に藁の窓。敷く物とても藁莚。是ぞ古の。錦の蓐なるべし。
蟬丸「たま〳〵事訪ふ物とては。
地「峰に木伝ふ猿の声。袖を湿ほす村雨の。音にたぐへて琵琶の音を。引き鳴らし引き鳴らし。我音をも泣く涙の。雨だにも音せぬ。藁屋の軒のひま〴〵に。時々月は漏りながら。目に見る事の叶はねば。月にも疎く雨をだに。聞かぬ藁屋の起臥を。思ひやられて痛はしや。
ロンギ、シテ「是までなりやいつまでも。名残は更に尽すまじ。暇申して蟬丸。
蟬丸「一樹の陰の宿りとて。それだに有るにまして実に。せうとの宮の御別れ。とまるを思ひやり給へ。
シテ「実に痛はしや我ながら。行くは慰む方もあり。留るをさこそと夕雲の。立ちやすらひて泣き居たり。
蟬丸「鳴くや関路の夕烏。浮かれ心は烏羽玉の。
シテ「我黒髪の飽かで行く。
蟬丸「別路とめよ逢坂の。
シテ「関の杉村過ぎ行けば。
蟬丸「人声遠くなるまゝに。
シテ「藁屋の軒に。
蟬丸「たゝずみて。
地「互にさらばよ。常には訪はせ給へと。幽に声のする程。聞き送りかへり見おきて。泣く〳〵別れおはします。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著

 

冊子型のPDFファイルをダウンロードしていただけます。
プリントアウトの上、中央を山折りにし、端を綴じてご活用ください。

 

 

 

 

今昔物語集 巻廿四第廿三 源博雅朝臣行会坂盲許

 今昔、源博雅朝臣と云ふ人有けり。延喜の御子の兵部卿の親王と申す人の子也。万の事止事无かりける、中にも管絃の道になむ極たりける。琵琶をも微妙に弾けり。笛をも艶ず吹けり。此人村上の御時に□□の殿上人にて有ける。其時に会坂の関に一人の盲庵を造て住けり。名をば蟬丸とぞ云ける。此れは敦実と申ける式部卿の宮の雑色になむ有ける。其の宮は宇多法皇の御子にて、管絃の道に極りける人也。年来琵琶を弾給けるを常に聞て、蟬丸琵琶をなむ微妙に弾く。而る間此の博雅此道を強に好て求けるに、彼の会坂の関の盲琵琶の上手なる由を聞て、彼の琵琶を極て聞ま欲く思けれども、盲の家異様なれば不行して、人を以て内々蟬丸に云せける様、『何と不思懸ぬ所には住ぞ。京に来ても住かし』と。盲此を聞て其答へをば不為して云く、
   世中はとてもかくてもすごしてむみやもわらやもはてしなければ
と。使返て此由を語ければ、博雅此を聞て極く心にくく思えて心に思ふ様、我れ強に此道を好むに依て必此盲に会はむと思ふ心深く、其に盲命有らむ事も計難し、亦我も命を不知ら、琵琶に流泉啄木と云ふ曲有り、此は世に絶ぬべき事也、只此の盲のみこそ此を知たるなれ、構て此が弾を聞かむと思て、夜、彼の会坂の関に行にけり。然れども蟬丸其の曲を弾く事无かりければ、其後三年の間夜々会坂の盲が庵の辺に行て、其曲を今や弾く今や弾くと、窃に立聞けれども更に不弾りけるに、三年と云ふ八月の十五日の夜、月少し上陰て風少し打吹たりけるに、博雅哀れ今夜は興有が、会坂の盲今夜こそ流泉啄木は弾らめと思て、会坂に行て立聞けるに、盲琵琶を搔鳴して物哀に思へる気色也。博雅此を極て喜く思て聞く程に、盲独心を遣て詠じて云く、
   あふさかのせきのあらしのはげしきにしひてぞゐたるよをすごすとて
とて琵琶を鳴すに、博雅これを聞て涙を流して哀れと思ふ事无限し。盲独言に云く、『哀れ興有る夜かな。若し我れに非ず□□者や世に有らむ。今夜心得たらむ人の来かし、物語せむ』と云を、博雅聞て音を出して、『王城に有る博雅と云者こそ此に来たれ』と云ければ、盲の云く、『此く申すは誰にか御座す』と。博雅の云く、『我は然々の人也。強に此道を好むに依て此の三年此庵の辺に来つるに、幸に今夜汝に会ぬ』。盲此を聞て喜ぶ。其時に博雅も喜び乍ら庵の内に入て、互に物語などして博雅、『流泉啄木の手を聞かむ』と云ふ。盲、『故宮は此なむ弾給ひし』とて、件の手を博雅に令伝てける。博雅琵琶を不具りければ、只口伝を以て此を習て返々す喜けり。暁に返にけり。此を思ふに諸の道は只如此可好き也。其れに近代は実に不然。然れば末代には諸道に達者は少き也。実に此れ哀なる事也かし。蟬丸賤しき者也と云へども。年来宮の弾給ひける琵琶を聞き、此極たる上手にて有ける也。其が盲に成にければ会坂には居たる也けり。其より後盲琵琶は世に始る也となむ、語り伝へたるとや。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『校註今昔物語選』武田祐吉 著

このコンテンツは国立国会図書館デジタルコレクションにおいて「インターネット公開(保護期間満了)」の記載のある書物により作成されています。
商用・非商用問わず、どなたでも自由にご利用いただけます。
当方へのご連絡も必要ありません。
コンテンツの取り扱いについては、国立国会図書館デジタルコレクションにおいて「インターネット公開(保護期間満了)」の記載のある書物の利用規約に準じます。
詳しくは、国立国会図書館のホームページをご覧ください。
国立国会図書館ウェブサイトからのコンテンツの転載