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草子洗小町

観阿弥作

ワキ 大伴黒主
シテ 小野小町
狂言 黒主従者
ツレ 紀貫之および其他
子方(王) 帝

地は 京都
季は 四月

ワキ詞「是は大伴の黒主にて候。さても明日内裏にて御歌合有るべしとて。黒主が相手には小野の小町を御定め候。小町と申すは歌の上手にて。さらに相手には叶ひがたく候ふ程に。明日の歌を定めて吟ぜぬ事は候ふまじ。かの私宅へ忍び入り。歌を聞かばやと存じ候。
シテサシ「夫れ歌の源を尋ぬるに。聖徳太子は救世の提闡。片岡山の製を路生に弘め給ふ。
詞「さても明日内裏にて御歌合有るべきとて。小町が相手には黒主を御定め候ひて。水辺の草といふ題を賜はりたり。おもしろや水辺の草といふ題に浮びて候ふは如何に。蒔かなくに何を種とて浮草の。波のうね〳〵生ひ茂るらん。此歌をやがて短冊に写しさぶらはん。
ワキ詞「如何に唯今の歌を聞いて有るか。
狂言「さん候承つて候。
ワキ「何と聞いてあるぞ。
狂言「蒔かなくに何を種とて瓜蔓の。畑のうねをまろびころびあるくらん。
ワキ「いや左様にてはなきぞ。道の道たるは常の道にはあらず。知れるを以て道とす。不得心なる事にて候へども。只今の歌を万葉の草子に写し。帝へ古歌と訴へ申し。明日の御歌合に勝たばやと存じ候。
一同次第「めでたき御代の歌合。〳〵。詠じて君を仰がん。
サシ「時しも頃は卯月なかば。清涼殿の御会なれば。花やかにこそ見えたりけれ。
貫之「かくて人丸赤人の御影を懸け。
一同「おの〳〵よみたる短冊を。われも〳〵と取りいだし。御影の前にぞ置きたりける。
貫之「さて御前の人々には。
一同「小町を始め河内の躬恒紀の貫之。
貫之「右衛門の府生壬生の忠岑。
一同「ひだりみぎりに着座して。
貫之「既に詠をぞ始めける。ほの〴〵と明石の浦の朝霧に。島がくれ行く舟をしぞ思ふ。
地「実に島がくれ入る月の。〳〵。淡路の絵島国なれや。始めて歌の遊びこそ。心やはらぐ道となれ。其歌人の名所も。みな庭上に並みゐつゝ。君の宣旨を待ち居たり。〳〵。
王詞「いかに貫之。
貫之詞「御前に候。
王「始めより小町が相手には黒主を定めたり。まづ〳〵小町が歌を読み上げ候へ。
貫之「畏つて候。水辺の草。まかなくに何を種とて浮草の。波のうね〳〵生ひ茂るらん。
王「おもしろとよみたる歌や。此歌に優るはよもあらじ。皆々詠じ候へ。
貫之「畏つて候。
ワキ詞「暫く候。是は古歌にて候。
王「何と古歌と申すか。
ワキ「さん候。
王「如何に小町。何とて古歌をば申すぞ。
シテ「恥かしの勅諚やな。先代の昔はそも知らず。既に衣通姫此道の捨たらん事をなげき。和歌の浦わに跡を垂れ給ひ。玉津島の明神よりこのかた。皆此道を嗜むなり。それに今の歌を古歌と仰せ候ふは。古今万葉の勅撰にて候ふか。又は家の集にて有るやらん。作者は誰にてましますぞ。委しく仰せ候へ。
ワキ「仰せの如く其証歌分明ならでは如何でか奏し申すべき。草子は万葉題は夏。水辺の草とは見えたれども。読人しらずと書きたれば。作者は誰とも存ぜぬなり。
シテ「夫れ万葉は奈良の天子の御宇。撰者は橘の諸兄。歌の数は七千首に及んで。皆妾が知らぬ歌はさぶらはず。万葉といふ草子に数多の本の候ふか覚束なうこそ候へ。
ワキ「げに〳〵それはさる事なれどもさりながら。御身は衣通姫の流なれば。あはれむ歌にて強からねば。古歌を盗むは道理なり。
シテ「さては御事は古の猿丸太夫の流れ。それは猿猴の名を以て。我名をよそに立てんとや。正しくそれは古歌ならず。
ワキ「花の蔭ゆく山賤の。
シテ「其さま賤しき身ならねば。何とて古歌とは見るべきぞ。
ワキ「さて詞をたゞさで誤りしは。富士のなるさの大将や。四病八病三代八部同じ文字。
シテ「文字もかほどの誤りは。
ワキ「昔も今も。
シテ「有りぬべし。
地「不思議や上古も末代も。三十一字の其内に。一字もかはらでよみたる歌。是れ万葉の歌ならば。和歌の不思議と思ふべし。さらば証歌を出だせとの。宣旨度々下りしかば。初めは立春の題なれば。花も尽きぬと引き開く。夏は涼しき浮草の。是こそ今の歌なりとて。既に読まんとさし上ぐれば。我身に当らぬ歌人さへ。胸に苦しき手を置けり。ましてや小町が心の内。たゞ轟きの橋打ち渡りて。あやふき心は隙もなし。
シテ「恨めしや此道の。大祖柿の本の太夫君も。小町をば捨てはて給ふか恨めしやな。此歌古歌なりとて。左右の大臣其外の。局々の女房達も。小町ひとりを見給へば。夢に夢見る心地して。さだかならざる心かな。此草子を取り上げ見れば。行の次第もしどろにて。文字の墨つき違ひたり。如何さま小町ひとり詠ぜしを黒主立聞し。帝へ古歌と訴へ申さん為めに。此万葉に入筆したると覚えたり。あまりに恥かしうさぶらへば。清き流れを結び上げ。此草子を洗はゞやと思ひ候。
貫之「小町は左様に申せども。もし又さなき物ならば。青丹衣の風情たるべし。
シテ「とにかくに思ひまはせども。やるかたもなき悲しさに。
地「泣く〳〵立つてすご〳〵と。帰る道すがら。人目さがなや恥かしや。
貫之詞「小町暫く御待ち候へ。其由奏聞申さうずるにて候。如何に奏聞申し候。小町申し候ふは。唯今の万葉の草子をよく〳〵見候へば。行の次第もしどろにて。文字の墨付も違ひて候ふ程に。草子を洗ひて見たき由申し候。
王詞「実に〳〵小町が申す如く。さらば洗ひて見よと申し候へ。
貫之「畏つて候。如何に小町勅諚にて有るぞ。急いで草子を洗ひ候へ。
地「其時御前の人々は。黄金の半挿に水を入れ。白金の盥取り添へて。小町が前に置きたりける。
シテ「綸言なればうれしくて。落つる涙の玉だすき。結んで肩に打ちかけて。既に草子を洗はんと。
地次第「和歌の浦わの藻塩草。〳〵。波寄せかけて洗はん。
シテ一声「天の川瀬に洗ひしは。
地「秋の七日の衣なり。
シテ「花色衣の袂には。
地「梅の匂ひやまじるらん。
ロンギ地「雁金の。翅は文字の数なれど。跡さだめねば顕はれず。頴川に耳を洗ひしは。
シテ「濁れる世を澄ましけり。
地「旧苔の鬚を洗ひしは。
シテ「川原に解くる薄氷。
地「春の歌を洗ひては。霞の袖を解かうよ。
シテ「冬の歌を洗へば。〳〵。
地「袂も寒き水鳥の。上毛の霜に洗はん。〳〵。恋の歌の文字なれば。忍草の墨消え。
シテ「涙は袖に降りくれて。忍草も乱るゝ。忘れ草も乱るゝ。
地「釈教の歌の数々は。
シテ「蓮の糸ぞ乱るゝ。
地「神祇の歌は榊葉の。
シテ「庭火に袖ぞかわける。
地「時雨に濡れて洗ひしは。
シテ「紅葉の錦なりけり。
地「住吉の。〳〵。久しき松を洗ひては。岸に寄する白波を。さつと掛けて洗はん。洗ひ〳〵て取り上げて。見れば不思議やこは如何に。数々の其歌の。作者も題も文字の形も。少しも乱るゝ事もなく。入筆なれば浮草の。文字は一字も。残らで消えにけり。有難や〳〵。出雲住吉玉津島。人丸赤人の。御恵かと伏し拝み。悦びて龍顔にさし上げたりや。
ワキ詞「よく〳〵物を案ずるに。かほどの恥辱よもあらじ。自害をせんと罷り立つ。
シテ「なふ〳〵暫く。此身皆以て。其名ひとりに残るならば。何かは和歌の友ならん。道を嗜む志。誰もかうこそ有るべけれ。
王詞「如何に黒主。
ワキ「御前に候。
王「道を嗜む者は誰もかうこそ有るべけれ。苦しからぬ事座敷へ直り候へ。
ワキ「是れ又時の面目なれば。宣旨をいかで背くべき。黒主御前に畏る。
地「実に有難きみぎんかな。小町黒主遺恨なく。小町に舞を奏せよと。おの〳〵立ちより花の打衣。風折烏帽子を着せ申し。笏拍子を打ち座敷を静め。
シテ「春来つては。あまねく是れ桃花の水。
地「石にさはりて遅く来れり。
シテ「手まづ遮る花の一枝。
地「桃色の衣や重ぬらん。
シテ「霞たつ。(舞)
シテ「霞たてば。遠山になる朝ぼらけ。
地「日影に見ゆる松は千代まで。松は千代まで。四海の波も四方の国々も。民の戸ざしもさゝぬ御代こそ。尭舜の嘉例なれ。大和歌の起りは。荒金の土にして。素盞嗚尊の。守り給へる神国なれば。花の都の春ものどかに。〳〵。和歌の道こそめでたけれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著

作者不詳とするのが一般的ですが、観阿弥作とする説もあり、底本では観阿弥作と記されています。

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