💡 鑑賞の手引き 観世流の「泰山木」(2000年復曲)は詞章がいくぶん異なります。
泰山府君
世阿弥作 前 ワキ 桜町中納言 シテ 天女 後 シテ 泰山府君 地は 京都 季は 三月 ワキカヽル「是は桜町の中納言とは我事なり。わが好ける心にあくがれて。青陽の春の朝には。花山に入つて日を暮らし。秋は龍田の紅葉ばの。色に染み香にめでゝ。情を四方にめぐらせば。心に洩るゝ方もなし。されども妙なる花盛。三春にだに足らずして。唯一七日の間なり。余りに名残惜しく候へば。泰山府君の祭を執り行ひ。花の命を延べばやと存じ候。 サシ「有難や治まる御代の習ひとて。何か望みは荒磯海の。浜の真砂の数々に。年を尽すや栄花の家。 地「花の命を残さんと。〳〵。是も手向と木綿花の。白木綿懸けて緋桜の。影明らかに春の夜の。月の光りも曇らじな。金銀珠玉色々の。花の祭を急ぐなり。〳〵。 シテ一声「花におり立つ白雲の。嵐や空に帰るらん。 サシ「天つ風雲の通路吹きとぢよ。乙女の姿しばしだに。とゞめかねたる春の夜の。色香上なき花盛。よそめの色も面白や。 地「いざ桜。われも散りなん一盛。〳〵。誘ふ嵐も心して。松に残る薄雪の。盛とも夕暮の。月も落ちくる天の原。霞の衣来て見れば。妙なる花の気色かな。〳〵。 シテ詞「あら面白の花盛や。何ともして一枝手折り天上へ帰らばやと思ひ候。花枝眼に入つて春あひ得ず。花一枝を手折らんと。忍び〳〵に立ち寄れば。 ワキ「春夜一時値千金。花に清香月に陰。見る目ひまなき花守の。鼓を数へ待ち居たり。 シテ「折らばやの花一枝に人知れぬ。我通路の関守は。宵々ごとにうちも寐よ。 ワキ「寐られん物か下枕。花より外は夢もなし。 シテ「実に〳〵見れば木の本に。人を寄せじと花の垣。 ワキ「隔てぬ月の影ともに。 シテ「花の光の。 ワキ「照り添ひて。 地「中々木陰はくらからねば。何と手折らん花心。月の夜桜の。影あさまなり恥かしや。 ロンギ地「実に有難や此春の。〳〵。花の祭の時過ぎば。今少しこそ松の風。終には花の跡とはん。 シテ「今手折らずは一枝の。後の七日を松の風。雪になり行く花ならば。跡とふとても由なし。 地「よしや吉野の山桜。千本の花の桜町。 シテ「月も折しも春の夜の。 地「霞の光。 シテ「花の影。 地「何か今宵の。思ひ出ならぬさりながら。あはれ一枝を。花の袖に手折りて。月をも共に詠めばやの。望みは残れり。此春の望み残れり。 シテ詞「うれしやな月が入りて候ふさりながら。手折るべき便りなければ徒に。更くる夜の間を待ちつるに。 地「うれしや月も入りたりや。〳〵。今は上こそ花盛。木の下闇に忍び寄り。さしも妙なる花の枝。手折りて行くや乙女子が。天の羽衣立ち重ね。天つ空にぞ帰りける。〳〵。(中入) 後ジテ「そも〳〵是は。五道の冥官泰山府君なり。 詞「我人間の定相を守り。明闇二つを守護する処に。上古にも聞かざりし。花の命を延べん為め我を祭る。唯色に染む一花心とは思へども。よく〳〵思へば道理々々。煙霞跡を埋んでは花の暮を惜しみ。佐国まさに身を捨てゝ後の春を待たず。斯かるためしも有る花を。手折れる者は何者ぞと。通力を以てよく見るに。欲界色界無色界。化天耶摩天にてもなきが。らくへん下天の天人が。此花を折つたよ。 地「山河草木震動して。虚空に光り満ち満てり。 シテ「天上清しと見る所に。何ぞ偸盗の雲の上。 地「天つ乙女の羽衣の。花のかづらの春を待て。 シテ「待たじはや待たじはや。 地「花一時の栄花の桜。 シテ「かざしの花のたま〳〵なるに。 地「花実の種も中空の。天つ御空は雲晴れて。らくへん下天は顕はれたり。天女はふたゝび天降り。〳〵。さしも心に懸けし花の。かづらもしぼむ涙の雨より。散りくる花を慕ひ行けば。 シテ「天上にてこそ栄花の桜。 地「散り来て何か残りの雪の。消えばや花も命の定め。梵釈十王閻魔宮。五道の冥官泰山府君の。力を種の継木の桜。あつぱれ奇特の花盛。 シテ「通力自在の遍満なれば。 地「通力自在の遍満なれば。花の命は七日なれども。もとより鬼神に横道あらんや。花の梢に飛び翔つて。嵐を防ぎ雨を漏らさず。四方にふさがる花の命。七日に限る桜の盛。三七日まで残りけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著