大仏供養
前 シテ 悪七兵衛景清 ツレ 景清母 後 ツレ 頼朝 同(数人) 従者 ワキ 同 シテ 前に同じ 地は 大和 季は 雑 シテ次第「忘れは草の名に聞きて。〳〵。忍ぶや我身なるらん。 詞「是は平家の侍悪七兵衛景清にて候。我此間は西国の方に候ひしが。宿願の子細あるにより。此程罷り上り清水に一七日参籠申して候。又承り候へば。南都大仏供養の由申し候。某も若草辺に母を一人持ちて候ふ程に。かやうの折節貴賤に紛れ。向顔の為め唯今南都へと急ぎ候。 サシ「あはれや実に古へは。さしも栄えし花紅葉の。寿永の秋の如何なれば。思はぬ風に誘はれて。さしも馴れにし都の空。引きかへ鄙の憂き住居。 下歌「繫がぬ船のかひもなく。弓矢の家に生まれ来て。 上歌「三笠の森の陰頼む。〳〵。其箒木のながらへて。いまだ此世の御住居。神も教への牡鹿鳴く。春日の里に着きにけり。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。南都若草辺に着きて候。此あたりにて御行方を尋ねばやと存じ候。 母詞「さても我子の景清は。此程何処に在るやらん。南無や三世の諸仏。我子の景清に。ふたゝび逢はせてたび給へ。 シテ詞「如何に案内申し候。 母詞「我子の声と聞くよりも。覚えず扃に立ち出でゝ。景清なるかと悦べば。 シテ「暫く。あたりに人もや候ふらん。某が名をば仰せられまじいにて候。 母「まづ此方へ渡り候へ。さて此程は何処に候ひつるぞ。 シテ「さん候西国の方に候ひしが。宿願の子細有るにより。都に上り清水に参籠申し候ふ処に。大仏供養の由承り候ふ程に。かやうの折節貴賤に紛れ。御音信の為に参りて候。 母「さてはうれしくも来り給ひて候。又尋ね申すべき事の候ふ包まず申すべきか。 シテ「是は今めかしき仰せかな。何事にても候ヘ申し上げうずるにて候。 母「まことや人の申すは。頼朝をねらひ申すと聞き及びて候ふが誠にて候ふか。 シテ「是は思ひもよらぬ仰せにて候ふさりながら。西海にて亡び給ひし御一門の。御弔ひにもなるべきかと。思へばねらひ申すなり。 母「申す処はさる事なれども。明日をも知らぬ老の身の。果をも見届け給へかし。 シテ「風にたゞよふ浮舟の。教経の御供申さずして。 母「物を思へば。 シテ「起きもせず。 地「寐もせで夜半を明かしかね。此身を隠すかひもなく。景清が心の内。母もあはれと思し召せ。一門の船の内。〳〵に。肩をならべ膝を組みて。所せく澄む月の。景清は誰よりも。御座舟になくて叶ふまじ。一類其以下。武略さま〴〵に多けれど。名を取楫の舟に乗せ。主従隔てなかりしは。さも羨まれたりし身の。麒麟も老いぬれば。駑馬におとるが如くなり。 シテ詞「早夜の明けて候ふ程に御暇申し候。 母詞「かまへて御身をよく〳〵慎みて。重ねて来り給ふべし。 シテ「実に有難き母の慈悲。御言葉の末も頼もしき。 地「柞の森の雨露の。〳〵。梢も濡らす我袖を。しをりかねたる涙かな。いつしか親心。悲しむ母の門送り。景清も跡を見返りて。涙と共に別れけり。〳〵。(中入) 一同一声「世に隠れなき大伽藍。仏の供養急ぐなり。 頼朝「そも〳〵是は源家の官軍。右大将頼朝とは我事なり。 一同「忝くも此御寺は。聖武皇帝の御建立。大仏殿にておはします。 ワキ「又此君の御威光。今此御寺に合ひにあふ。 一同「大伽藍の御供養。〳〵。光りかゝやく春の日の。三笠の山に影高き。法の御声のさま〴〵に。供養をなすぞ有難き。〳〵。 シテ一声「おもしろや奈良の都の時めきて。色々飾る物詣で。我はそれには引きかへて。敵をうたん謀を。思ふ心はおのが名の。悪七兵衛景清と。よそにもそれと人やもし。白張浄衣に立烏帽子。実に我ながら思はざる。姿に今は楢の葉の。時雨降り置く天が下に。身を隠すべき便なき。憂き身の果ぞあはれなる。 一声「宮人の。姿を暫し狩衣。 地「今日ばかりこそ翁さび。 シテ「人なとがめそ神だにも。 地「塵に交はる宮寺の。供養の場に立ち出づる。 ワキ詞「こは何者なれば御前まぢかく参るぞそこのき候へ。 シテ詞「是は春日の宮づこなるが。今日の仏の御供養。場を清めの役人なるを。何しにとがめ給ふらん。 ワキ「春日祭にあらばこそ。是は仏の御供養。 シテ「なふ水波の隔てと聞く時は。仏も神も同一体。其上貴賤の事なるに。何とて撰び給ふべき。 ワキ「包むとすれど神はなほ。君を守りの御威光。 シテ「あらはれけるか白張の。 ワキ「脇より見ゆる具足の金物。 シテ「光りを放つ。 ワキ「打物の。 地「鞘つまりたる言葉の末。名乗れ〳〵と責めければ。顕はれたりと思ひつゝ。さらぬやうにて立ち帰り。又人かげに隠れけり。 ワキ詞「言語道断の事。唯今の者を如何なる者ぞと存じて候へば。平家の侍悪七兵衛景清にて候。正しく我君をねらひ申すと存じ候ふ程に。警固の者に申し付け討ち取らせばやと存じ候。如何にやいかに警固の兵たしかに聞け。唯今見えし痴者を。早打つ取つて参らせよと。さも高声に下知すれば。 地「畏つて候ふとて。かねて用意の警固の兵。皆一同に立ち騒ぐ。 シテ詞「其時景清又立ち出でゝ思ふやう。こゝ立ち退きては弓矢の恥辱となるべきなれば。今一太刀は打ちあひて。重ねて時節を待つべしと。大音上げて呼ばゝりけり。そも〳〵是は平家の侍悪七兵衛景清と。 地「名乗りもあへず痣丸を。〳〵。するりと抜き持ち立ち向ひ。大勢に割つて入れば。さしも固めし警固なれども。四方へばつとぞ遁げにける。中に若武者進み出で。走りかゝつてちやうと切れば。ひらりと飛んで手もとにより。忽ち勝負を見せにけり。今は景清是までなりと。少し祈念を致しつゝ。彼痣丸をさしかざせば。霧立ち隠すや春日山。茂みに飛び入り落ちけるが。又こそ時節を待つべけれと。虚空に声して失せにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著