大瓶猩々
前 ワキ かうふう シテ 童子 後 ワキ 前に同じ シテ 猩々 ツレ(六人) 伴ふ猩々 地は 唐土 季は 九月 ワキ詞「是は唐かねきん山の麓に。かうふうと申す民にて候。我親に孝有るにより。次第々々に富貴の家と罷り成りて候。又此間何処とも知らず童子数多来り。某が酒を買ひ取り候。今日も来りて候はゞ。如何なる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 シテ一声「わたづみの。そことも知らぬ波間より。顕はれ出づる日影かな。 ワキ詞「今日の市人は何とて遅く来り給ふぞ。 シテ詞「嬉しやさらばと内に入り。いつもの酒を愛しけり。 地「琴詩酒と。聞くも隔てぬ友人の。〳〵。いつもかはらぬ酒功賛に。酒を愛せし来し方の。人の心にひきかへて。是は琴にも盃。詩を作るにも盃。唯酒飲の友ばかり。恥かしやさこそげに。市人の我を笑ふらん。 ワキ詞「此程は何処の人とも弁へず。今日は御名を名乗りおはしませ。 シテ詞「今は何をか包むべき。是は潯陽の江に年久しき。猩々と云へる者なるが。御身親に孝有るにより。天のあはれみ深ければ。泉の壺を与へんなり。疑ひ給ふなかうふうと。 地「夕べの空も近ければ。〳〵。暇申してさらばとて。行くかと見ればさにぬりの。面も赤く様かはりて。市人に立ちまぎれて。跡も見えずなりにけり。跡をも見せずなりにけり。(中入) 地「御酒と聞く。〳〵。名もすさましく秋の来て。暖め酒と菊月の。頃もはや紅葉の。はや色付くか一重山。薄き紅葉ば色々の。菊の盃すゑ置き。秋の夜深く待ちけるに。 ツレ「不思議や此友の。 地「不思議や此友の。来らぬは覚束な。沖に向ひて我友の。など遅なはり給ふぞや。急ぎ給へ友人。 地「又猩々は顕はれ出でゝ。〳〵。彼かうふうに。妙なる泉を与へんとて。波間を分けて潯陽の江の。汀も近く顕はれたり。 地「頃は秋の夜月おもしろく。〳〵。汀の波も更け静まりて。数多の猩々大瓶に上り。泉の口を取るとぞ見えしが。涌き上り涌き流れ。汲めども〳〵尽きせぬ泉。何れも戯ぶれ。舞ふとかや。(中の舞) シテ「菊の露。積りて尽きぬ此泉。 地「尽きせぬ宿に。 シテ「返し授け置き。 地「是までなりや。酔ひ伏す夢の。覚むると思へば又起き上り。命長柄の柄杓の酒を。道俗男女に残さず進め。元の泉に収まりければ。何れも〳〵。足もとはよろ〳〵よろ〳〵と。繰言茂く。千秋万歳君千代までと。〳〵。栄ふる御代こそめでたけれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著