高安小町
ワキ 滝口何がし シテ 小野小町 地は 河内 季は 九月 ワキ次第「誉れも今は中々に。〳〵。あだとなりゆく浮世かな。 詞「是は当今に仕へ奉る滝口の何某にて候。さても昨日月見の御会御座候ふ処に。帝の御歌をば。わきてとり〴〵衆議判の御事にて候。さる間小野の小町も。其席に連なりて御入り候ふを。ある人讒をかまへて帝の御製を。小町さま〴〵すさみ申したりと奏聞す。君この由聞し召し入れられ。急ぎ河内の国高安の里へ。籠居させよとの勅諚にまかせ。痛はしながら輿に載せ。只今河内の国へと急ぎ候。 道行「もろ共に。出でし月こそ忘られね。〳〵。都の空を立ち隠す。淀の川霧晴れやらぬ。思ひもかゝる綾簾。網代の輿の来し方も。夢や現と隔て来て。こゝぞ関戸の宿ならん。〳〵。 シテ「悲しやな身には犯せる罪なうして。思はぬ方にさすらひけるぞや。 クドキ「げにやつく〴〵と世の有様を思ふに。月明らかなりといへども。浮雲には影暗く。人素直なりといへども。さかしらの為めには身を失ふ。あら浅ましや候。 詞「如何に滝口に申し候。 ワキ「何事にて候ふぞ。 シテ「向ひに拝まれさせ給ふは。其名も高き石清水にて御入り候ふか。 ワキ「さん候あれこそ石清水八幡宮にて御入り候。帰洛の祈りに御参詣候へ。某案内し候ふべし。 シテ「南無や八幡大菩薩。本地は久遠の如来。三界我有悉是吾子。能為救護の御誓ひ空しからずは。無実の難を晴らし給へと。 地「涙と共に念誦して。又立ち出づる道の末。渚の森を早過ぎて。勇む心はあらねども。伊駒の山の麓なる。高安の里に着きにけり。〳〵。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。高安の里に御着きにて候。此里の長が許へ御入り候へ。さらばかう御通り候へ。 シテ「さて御身は是より御帰り候ふか。此程の御名残と申し。かた〴〵便なう候。 ワキ「さのみな御嘆き候ひそ。我等も此処に留まりよく痛はり申せとの御事にて候。御心安く思し召し。何事をも某に御申しあらうずるにて候。 シテ「さるにても思ひもよらぬ無き名を負ひ。辛き憂き目に逢ふ事よ。秋風に逢ふ田の実こそ悲しけれ。我身空しくなりぬと思へば。 地「思ひ慰む方もなき。生駒の山の峰の雲。晴間なき涙の。雨と降らん露の身は。如何なる草に結ぶらん。庵寒き秋の風。ありし雲井の伝をば。渡る雁にや問ふべき。いつまでかゝる古簾。都には無きながめかな。〳〵。 ワキ詞「如何に申し候。 シテ「何事にて候ふぞ。 ワキ「古へ在原の業平。奈良の京より此高安の里へ忍妻にあくがれ。通ひ給ふと承り及びて候。かゝる折ならでは承り難う候ふ程に。御物語あつて御聞かせ候へ。 シテ「それは遥々年をへだてし事にて。委しくは知らずさぶらへども。御慰めの為め語り参らせ候はん。 クリ地「それ在原の業平は。平城天皇の御孫。阿保親王の五男。風月の才に長じ。帝の御覚えも他に異にして。今は昔に奈良の京。春日の里に紀の有常の。娘と契り住み給ひしが。時めく花に移り行く。あだし心のうたてさよ。 サシ「花紅葉いづれの色にめでぬらん。 地「此高安の忍妻に。いつの頃よりかいまみて。雲の旗手に物を思ひ。明けぬ暮れぬとあくがれて。妻木こりにし片岡の。深き山路となりにけん。 クセ「妹背語らひし。有常の娘は。振分髪の石の上。井筒によりて水鏡。竹田の早苗ふし立ちて。色ある秋の天つ空。牽牛織女の変はらぬ中と誓ひつゝ。よしや吉野川。帯となるまで結びぬる。契りをよその夕暮と。此高安に情知る。女の許へ通路の。沖つ白波龍田越。鬼一口も何ならで。ほのめきあへる始には。女も粧ひて。得ならぬ衣の色々に。薫物すとは知りながら。なべてならざる移香の。身に添ふまゝに月日経て。 シテ「稀に高安に来て見れば。始めこそ。心にくゝも作りつれ。いつしか打ちとけて。物のけはひも疎かに。飯匙取りて折毎の。かれひ進めしすさみにぞ。程なく秋の風立ちて。本荒の萩ふたゝび。花咲き実なる世の例。終の花を忘れて。時の花を愛するは。人間皆酔へり。あだなる色に引き替へて。賢きに本づく。浮世の人ぞ少なき。 ロンギ地「げにやあだなる物語。かゝる折ならで。かほど委しく白真弓。引き帰るさを朝夕に。頼みて聞くや松の声。 シテ「立ち別れ。いなば名残や惜しまれん。さりとては高安の。安からぬ身の置処。 地「理り過ぐる身の嘆き。暫しは村雲の。かゝる無実の名を負ふと。終には晴れん本の月。 シテ「今は秋の末。菊の宴も早過ぎ。紅葉の賀もやありぬらん。大内の様ぞなつかしき。 地「げに大内の御遊に。漏れぬ人の如何なれば。鄙の住居のいとゞしき。松の柱に竹の垣。柴といふ物折り焚きて。つれ〴〵わぶる涙を。何れの日にか乾すべき。〳〵。 ワキ詞「や。何と申すぞ。都より帰洛の綸旨を下されたると申すか。こは有難き勅諚かな。なふ急いで御拝み候へ。 シテ詞「あら有難や候。神は正直の頭に舎り給ふなれば。是と申すも石清水の。御利生にてこそ候へ。 ワキ「げに〳〵御身の素直なる心故。神明の加護あらはれてこそ候へ。此祝ひに舞をまひ。神をすゞしめ給ふべし。折節是に烏帽子の候。疾く〳〵召され候へ。 シテ「嬉しさを何に包まん袖の色。烏帽子けだかくたをやかに。和歌をあげつゝ舞ふとかや。唐国の。聖の代にも越えつべし。 地「五日の風や十日の雨。枝を鳴らさぬ千代の秋。(舞) シテワカ「高き屋に。上りて見れば煙たつ。民の竈は賑ひて。 地「さるにても此里へ。移りし時は君をも身をも。うらみ葛の葉の。ねたき心も今は早。風の前の木の葉の散る如く。大津の舟の綱解く如くに。憂きを晴らして。勇む心は鳥屋の鷹の。二たび雲井に立ち帰り。同じ御空の月をも眺め。雪をもめぐらす舞の曲。左右颯々の袂をかざして。都に帰るぞ有難き。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著