谷行
禅竹作 前 ワキ 帥阿闇梨 子方 松若 シテ 松若母 後 ワキ 前に同じ ワキヅレ 小先達および随行山伏一同 シテ(謡なし) 鬼神 地は 前は京都 後は大和 季は 冬 ワキ詞「是は今熊野梛の木の坊に。帥の阿闍梨と申す山伏にて候。さても某弟子を一人持ちて候ふが。彼者の父空しくなり。母ばかりに添ひて候。又某は近き間に峰入を仕り候ふ程に。暇乞の為めに唯今出京仕り候。いかに案内申し候。 子詞「誰にて御入り候ふぞ。や。師匠の御出でにて候ふよ。 ワキ「如何に松若。何とて久しく寺へは上り給ひ候はぬぞ。 子「さん候母御の風の心地にて候ふ程に参らず候。 ワキ「言語道断。ゆめ〳〵左様の事をも存ぜず候。まづ〳〵某が参りたる由御申し候へ。 子「如何に申し候。師匠の御出でにて候。 シテ詞「此方へと申し候へ。 子「此方へ御入り候へ。 ワキ「久しく参らず候。又松若申され候ふは。風の心地の由承り候。如何様に御座候ふぞ。 シテ「風の心地は苦しからず候。御心安く思し召され候へ。 ワキ「さてはめでたう候。又近き間に峰入を仕り候ふ程に。御暇乞の為めに参りて候。 シテ「実に〳〵峰入とやらんは。大事の行とこそ承りて候へ。さて松若も御供にて候ふか。 ワキ「幼き者の供すべき道にてはなく候。 シテ「さてはめでたうやがて御帰り候へ。 ワキ「さらばやがて参らうずるにて候。 子「いかに申すべき事の候。 ワキ「何事にて候ふぞ。 子「松若も峰入の御供申さうずるにて候。 ワキ「いや〳〵唯今も母御に申し候ふ如く。此道は難行捨身の行体にて。思ひもよらぬ事にてあるぞ。其上母の風の心地を見捨つべきにあらず。かた〴〵思ひもよらぬ事。唯とまり候へ。 子「いや母の風の心地にて候へば。御祈りの為めに参らうずるにて候。 ワキ「さあらば此由を母御に申さうずるにて候。又参りて候。松若峰入の供せうずる由申され候ふ間。母御の風の御心地と云ひ。難行捨身の道と申し。かた〴〵叶ふまじき由申して候へば。御祈りの為めに供すべき由申され候。如何が候ふべき。 シテ「仰せ承り候。まづは松若申す如く。峰入の御供申さん事こそ。尤望む所なれども。御身の父におくれし日より。唯一人子のひたすらに。身に添ふ時だに見ぬひまは。露程だにも忘られず。思ふ心を思へかし。唯思ひとまり候へ。 子「仰せはさる御事にて候へども。身は難行の道に出でゝ。母の現世を祈らんと。思ひ立ちたるばかりなりと。 地「かきくどきたる其気色。師匠も母も諸共に。あはれ孝行の。深きや涙なるらん。 シテロンギ「此上なれば力なし。さらば師匠の御供して。とく〳〵帰り給へや。 子「帰るさの。心をとめて出づる日も。やがて急ぐや足引の。大和路遠き思ひかな。 シテ「思ひを尽す手向には。 子「つづりの袖も切るべきに。 地「別れはさま〴〵の。行末知ればよそにのみ。見てや止みなん葛城や。高間の山の峰の雲。晴れぬは親の思子の。名残惜しさをいかにせん。〳〵。(中入) ワキサシ「かくて小童思ひの外。峰入の姿山伏の。兜巾篠懸苔の衣。 一同「今日思ひ立つ道のべの。〳〵。便りぞ深き志し。唯孝行の神力に。馬はあれども徒歩に行く。こは誰が為めぞ宇治の里。都出で。今日みかの原泉川。河風さむみ千鳥鳴く。声こそ今日の夕べなれ。〳〵。ふりさけ見れば春日なる。〳〵。三笠の山をさし過ぎて。布留の神杉過ぎがてに。三輪の山本よそに見て。たれ我庵と定めけん。峰の巌の苔衣。かたしきそむる葛城の。露こそ宿りなりけれ。〳〵。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は早一の室に着きて候。暫く是にあらうずるにて候。 小先達「承り候。 子「いかに申すべき事の候。 ワキ「何事にて候ふぞ。 子「道より風の心地にて候。 ワキ「暫く。此道に出でゝ左様の事をば申さぬ事にて候。それは習はぬ旅の疲れにて有るべし。よく〳〵休み候へ。 小先達「松若殿道より風の心地の由承り候。先達に尋ね申さうずるにて候。 ツレ「尤にて候。 小先達「松若殿風の心地と承り候ふは。何と御座候ふぞ御心もとなく候。 ワキ「さん候是はならはぬ旅の疲れにてありげに候。苦しからず候。 小先達「さては御心安く候。 ツレ「いかにかた〴〵へ申し候。松若殿旅の疲れの由仰せられ候ふが。以ての外に見え給ひて候。何とて大法の如く谷行に行ひ給ひ候はぬぞ。 小先達「実に〳〵是は尤にて候。さらば先達へ其由申さうずるにて候。如何に申し候。先に松若殿の御事を尋ね申して候へば。旅の疲れと承り候ふが。今はゝや以ての外に見えさせ給ひて候。憚り多き申し事にて候へども。昔よりの大法にて候へば。谷行に行ひ申さうずるよし皆々申され候。 ワキ「何と松若を谷行に行はれうずると候ふや。 小先達「さん候。 ワキ「大法の事にて候ふ程に。是非をば申さず候ふさりながら。彼者の心中あまりに不便に候へば。大法の由を懇に申し聞かせうずるにて候。 小先達「尤にて候。 ワキ「如何に松若たしかに聞け。此道に出でゝかやうに違例する者をば。谷行とて忽ち命を失ふ事。是れ昔よりの大法なり。御身にかはる物ならば。何か命の惜しからん。進退窮まりて候。 子「仰せ承り候。此道に出でゝ命を捨てん事こそ。尤も望む所なれども。母の御歎きの色。それこそ深き悲しみなれ。又かりそめも他生の縁。皆人々に御名残こそ惜しう候へ。 地「何といひやる方もなく。皆声をあげ涙に。むせぶ心ぞあはれなる。 一同サシ「かくて面々一同に。あはれ悲しき世の習ひ。ことさら是は大法の。冥見私なきまゝに。谷行にこそ行ひけれ。 ワキ「先達も師弟の契りの中なれば。何といひやる方もなく。唯くれ〳〵と目もあやなく。 地「泣く涙。せかれぬ道なれば。身も諸共に兎も角も。ならばやと思ふさへ。叶はぬ事ぞ悲しき。悲しみの。至りて悲しきは。生別離の心なり。中々死別ならば。かほどの歎きよもあらじ。 クセ「一切有為の世の習ひ。如夢幻泡影如露亦如電。応作如是観の心をも。思ひ知らずやさしも此。行者の道には出でながら。火宅の門を去りやらで。猶安からぬ三界の。親子恩愛の。歎きにひとしかりけり。 小先達「かくて時刻も移るとて。 地「皆面々に思ひ切り。邪見の剣身を砕く。心をなして彼人を。けはしき谷に陥れ。上におほふや石瓦。雨壌を動かせる。心を痛め声をあげ。皆面々に泣き居たり。〳〵。 小先達詞「早日のたけて候。急ぎ御立あらうずるにて候。 ワキ詞「愚僧は罷り立つまじく候。 小先達「先達の御立ちなく候ひては。我々は何と仕り候ふべき。唯急いで御立ち候へ。 ワキ「まづ案じても御覧候へ。我等都に上り。彼者の母には何と申すべきぞ。所詮病気も歎も同じ事にて候へば。我等をも谷行に行ひて賜はり候へ。 小先達「御歎き尤にて候。如何にかた〴〵へ申し候。先達の仰せ候ふは。病気も歎きも同じ事なれば。先達も谷行に行ひ申せと仰せ候。さて何と仕り候ふべき。 ワキヅレ「実に〳〵御歎き尤にて候。我々存じ候ふは。此年月の行徳もかやうの時にてこそ候へ。開山役の優婆塞。幷びに大聖不動明王の索にかけ。松若殿の御命をふたゝび蘇生させ申さうずるにて候。 小先達「是は尤にて候。如何に申し候。皆々申され候ふは。此年月の行徳もかやうの時にてこそ候へ。開山役の優婆塞。殊には大聖不動明王の索にかけ。松若殿の御命を蘇生させ申さうずる由皆々申され候。 ワキ「左様の事こそ聞かまほしう候へ。我等も是にて祈念申さうずるにて候。 一同「さても師匠の其なげき。理すぐる有様を。見聞くもおなじ心かな。 ワキ「さりとも年月頼みをかくる。大聖不動明王の威力。 一同「又は山神護法善神。 ワキ「殊には開山役の優婆塞。 一同「哀愍納受垂れ給ひ。 地「使者の鬼神伎楽伎女を。遣はし助けおはしませ。 地「伎楽鬼神は飛び来り。伎楽鬼神は飛び来つて。行者の御前にひざまづいて。頭を傾け仰せを受けて。谷行に飛び翔つて。上に蓋へる土木磐石。押し倒し取り払つて。上なる土をばやはら〳〵と。静かにかへして彼小童を。つゝがもなく抱きあげ。行者の御前に参らすれば。行者は喜悦の色をなし。慈悲の御手に髪を撫で。善哉々々孝行切なる。心を感ずるぞとて。帰らせたまへば伎楽も共に。御先を払つてさかしき路を。分けつくゞりつ上るや高間の。雲霧つたふや葛城の。人の目にこそかゝらざれども。まことは渡せる岩橋を。大峰かけて遥々と。虚空を渡つて失せにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著