玉葛
禅竹作 前 ワキ 旅僧 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ シテ 玉葛の内待 地は 大和 季は 九月 ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。我此程は南都に候ひて。霊仏霊社残りなく拝みめぐりて候。又是より初瀬詣と志して候。 道行「楢の葉の。名におふ宮の古事を。〳〵。思ひつゞけて行末は。石上寺ふしをがみ。法のしるしや三輪の杉。山本ゆけば程もなく。初瀬川にも着きにけり。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。初瀬川に着きて候。心静に参詣申さうずるにて候。 シテ一声「程もなき。舟の泊りや初瀬川。上りかねたるけしきかな。 サシ「舟人も誰を恋ふとか大島の。うらかなしげに声たてゝ。こがれ来にける古への。果しもいさや白浪の。よるべいづくぞ心の月の。御舟はそこと果しもなし。 下歌「唯我ひとり水馴れ棹。雫も袖の色にのみ。 上歌「暮れてゆく。秋の涙か村時雨。〳〵。古河野辺のさびしくも。人や見るらん身の程も。なほ浮舟の楫を絶え。綱手かなしき類ひかな。〳〵。 ワキ詞「ふしぎやな此河は山川の。さも浅くしてしかも漲る岩間づたひを。ちひさき舟に棹さす人を見れば女なり。そも御身は如何なる人にてましますぞ。 シテ詞「是は此初瀬寺に詣でくる者なり。又此川は所から。名に流れたる海士小舟。初瀬の川とよみおける。其河の辺の江にしあるに。不審な為させ給ひそとよ。 ワキ「あらおもしろの言葉やな。げに海士小舟初瀬とは。古き詠めの言葉なるべしさりながら。又其類ひも浪小舟。さして謂のあるやらん。 シテ「いや何事のそれよりも。先御らんぜよ折柄に。 地「ほの見えて。色づく木々の初瀬山。〳〵。風もうつろふ薄雲に。日影も匂ふ一しほの。さぞな気色もかく河の。浦わの詠めまで。げにたぐひなや面白や。川音きこえて里つゞき。奥もの深き谷の戸に。つらなる軒を絶々の。霧間に残す夕べかな。〳〵。かくて御堂に参りつゝ。補陀洛山も目のあたり。四方のながめも妙なるや。紅葉のいろに常磐木の。二本の杉に着きにけり。〳〵。 シテ詞「是こそ二本の杉にて候へ能々御らん候へ。 ワキ詞「さては二本の杉にて候ひけるぞや。二本の杉の立所を尋ねずは。古河の辺に君を見ましやとは。何とよまれたる古歌にて候ふぞ。 シテ「是は光る源氏のいにしへ。玉葛の内侍此はつせに詣で給ひしを。右近とかや見奉りてよみし歌なり。共にあはれと思しめして御あとを。よく弔ひ給ひ候へ。 地クリ「げにや有りし世を。猶夕顔の露の身の。消えにしあとは中々に。何なでしこの形見も憂し。 シテサシ「あはれ思ひの玉葛。かけてもいさや知らざりし。 地「心尽しの木の間の月。雲井のよそにいつしかと。鄙の住居の憂きのみか。さてしも堪へてあるべき身を。 シテ「猶しをりつる人心の。 地「あらき浪風立ち隔て。 クセ「たよりとなれば早舟に。乗りおくれじと松浦がた。唐船を慕ひしに。心ぞかはる我はたゞ。浮島を。漕ぎ離れても行く方や。何く泊りと白波に。響の灘も過ぎ。思ひに障る方もなし。かくて都の内とても。我は浮きたる舟のうち。なほや憂き目を水鳥の。陸にまどへる心地して。たづきも知らぬ身の程を。思ひ歎きて行き悩む。足曳の大和路や。唐までも聞ゆなる。初瀬の寺に詣でつゝ。 シテ「年もへぬ。いのる契りは初瀬山。 地「尾上の鐘のよそにのみ。思ひ絶えにし古への。人に二度ふた本の。杉の立ちどを尋ねずは。古川のベと詠めける。今日の逢ふせも同じ身を。思へば法の衣の。玉ならば玉葛。まよひを照らし給へや。 ロンギ地「げに古き世の物語り。聞けば涙も籠江に。こもれる水のあはれかな。 シテ「あはれとも。思ひは初めよ初瀬川。早くも知るや浅からぬ。 地「縁にひかるゝ。 シテ「心とて。 地「たゞ頼むぞよ法の人。弔ひ給へ我こそは。涙の露の玉の名と。名のりもやらず為りにけり。〳〵。(中入) ワキ詞「さては玉葛の内侍かりに顕はれ給ひけるぞや。たとひ業因おもくとも。 歌「照らさゞらめや日の光り。〳〵。大慈大悲の誓ひある。法の灯あきらかに。亡き影いざやとぶらはん。〳〵。 後ジテ一声「恋ひわたる。身はそれならで玉葛。いかなる筋を尋きぬらん。たづねても。法の教へに逢はんとの。心ひかるゝ一筋に。其まゝならで玉葛の。みだるゝ色は恥かしや。つくも髪。 地「つくも髪。我や恋ふらし面影に。 地「立つやあだなる塵の身は。 シテ「はらへど〳〵執心の。 地「ながき闇路や。 シテ「黒髪の。 地「飽かぬやいつの寝乱髪。 シテ「むすぼゝれゆく思ひかな。 地「げに妄執の雲霧の。〳〵。迷ひもよしや憂かりける。人を初瀬の山おろし。はげしく落ちて露も涙も。ちり〴〵に秋の葉の身も。朽ち果てね恨めしや。 シテ「うらみは人をも世をも。 地「恨みは人をも世をも。思ひ思はじ唯身ひとつの。報いの罪やかずかずの。憂き名に立ちしも懺悔の有様。あるひは湧きかへり。岩もる水の思ひに咽せび。あるひは焦るゝや身よりいづる。玉とみるまで包めども。蛍にみだれつる。影もよしなやはづかしやと。此妄執をひるがへす。心は真如の玉かづら。〳〵。長き夢路はさめにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著