陀羅尼落葉 一名 落葉
前 ワキ 北国の僧 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ シテ 落葉の宮 ワキ次第「月を都のしるべにて。〳〵。越路の秋を出でうよ。 詞「是は北国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。此秋思ひ立ち都に上り候。 サシ「万里にして人南に去り。三春の雁北に飛ぶ。 道行「花は唯。越路の春やまさるらん。〳〵。都の空を別れ来し。名残を今も音に立てゝ。月にと急ぐ狩衣。遥けき旅の行方かな。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。是は早都の辺にても小野とかや申すげに候。あら笑止と立ち重なりたる霧や候。唯今の気色にて古言の思ひ出でられて候。荻原や軒端の露にそぼちつゝ。八重立つ霧を分けぞ行くべき。 シテ詞「なふ〳〵あれなる御僧。今の歌をば何と思ひよりて詠じさせ給ふぞ。 ワキ詞「是は始めて都へ上る者にて候ふが。まだ踏みなれぬ道のべに。いとゞ深むる夕霧を。分けん方なきあはれさに。古言の思ひ出でられて。唯何となく口ずさみ候ふよ。 シテ「是は夕霧の大将と聞えし人の。此所にて詠ぜし歌なり。其心をも知ろし召して口ずさび給ふかと。思へば尋ね申すなり。 ワキ「いやそれまでは知らねども。唯秋霧の分けま憂きに。よそへて思ひ出でたるなり。 シテ「さては其心を知ろし召さゞりけり痛はしや。行かん都のつてとても。まだ程遠き夕霧を。いかで迷はせ給ふべき。 詞「草の扃はいぶせくとも。一夜を明かさせ給ふべし。 ワキ「実に有難き御事かな。さらば御供申さんと。 シテ「そことも知らぬ小野の細道。 ワキ「末もつゞかぬ。 シテ「かたへの野べの。 地「入方に。なり行く秋の夕日影。〳〵。空の気色も冷ましくて。蜩の。声さへしきる山の陰は。をぐらき心地のみ。心細き夕べかな。我住む方の庵とて。帰り馴れずは旅人の。いかでか分けん道ならん。〳〵。 ワキ詞「今宵の御宿かへす〴〵も有難う候。さて〳〵先の御詠歌に付いて。夕霧の大将とやらんの。此所へ御入りありたる由聞え候。さて此小野には如何なる人の住ませ給ひて候ふぞ。 シテ詞「此所には一条の御息所の御物の怪にて。暫く住ませ給ひしなり。同じく御息女落葉の宮も。母御に付き添ひ住ませ給ひて候。 ワキ「あら面白や落葉の宮とは。如何なる名にて候ふぞ委しく御物語り候へ。 シテ「さらば語つて聞かせ参らせ候はん。さなきだに女の身は。五障三従の罪深きに。世を背かんの心の本意も。叶はぬ其身の昔語。かたりて聞かせ申すべし。御跡をよく〳〵弔ひ給ひ候へ。 地クリ「そも〳〵此落葉の宮と申すは。光る源氏の兄。朱雀院女二の宮。一条の御息所の御息女なり。 シテサシ「其頃柏木の衛門の督と申しゝ人。 地「折しも春の暮つ方。風吹かず。かしこき日影を興じつゝ。故ある木立の花盛。わづかなる。萌黄の陰に乱れつゝ。挑み争ふ鞠の数。暮れ行く庭に思はずも。手飼の猫のまつはれし。 シテ「小簾の外漏れし面影の。 地「身に添ふ絆となりたるなり。 クセ「恋の奴となりはつる。思ひや延べんとばかりに。縁の露を結びしも。契りの中は身に染まで。もとよりしみにし方こそ。猶茂り行く草の名の。慰めがたき姨捨にて。諸かづら。落葉を何に拾ひけん。名は睦ましきかざしなれども。かくいひし言の葉の。我名に合ふぞ悲しき。其後をりを得て。思ひの末はなよ竹の。一夜結びし手枕を。かはす程なき衣々の。袖に余れる白露の。起きて行く。空も知られぬ明暗に。何処の露のかかる袖の。思ひの色をさすがとや。人のあはれの露かけて。 シテ「明暗の。空に憂き身は消えなゝん。 地「夢なりけりと見てもせめて。慰むべくといふ声を。聞き捨て出でし魂は。我を離れてさながらに。人にとまれる心地して。うつし心も涙のみ。其身を責めて絶えし人に。我身はかなき契りこそ。消えしにまさるつらさなれ。 ロンギ地「昔語の言の葉の。奥ゆかしきを同じくは。心に残し給ふなよ。 シテ「世語りを。語ればいとゞ古へに。又立ち帰る袖の波の。あはれはかなき身のはてし。よく〳〵弔ひてたび給へ。 地「思ひよらずや御跡を。弔ふべき御身誰ならん。 シテ「此上は。我名をいはん夕霧の。迷ひを晴らしおはしませと。 地「我も音を泣く雲井の。雁金寒み吹く風の。誘ふとばかり失せにけり。〳〵。(中入) ワキ詞「唯今見えし夢人は。唯人ならず思ひしに。さてはいにしへの夕霧に迷ひの心を残し。我に言葉をかはしけるぞや。いざや御跡弔はんと。説くや御法の花の紐。〳〵。永き闇路も終に今は。若生人天中受勝妙楽。若在仏前蓮華化生。 後ジテ「あら有難の御経やな。〳〵。有りし世を思ひも出でじ今は早。妙なる御法の値遇の縁に。玉磬の声は管絃を奏する事を思ひ。衲衣の僧は綺羅の人に越えたり。いよ〳〵仏果を授け給へ。 ワキ「不思議やな千種の露の色々に。錦を連ぬる花の袖口。そこはかとなき面影は。ありし一夜の主やらん。 シテ「御弔ひの有難さに。恥かしながらいにしへの。草の陰なる魄霊の。是まで顕はれ参りたり。 詞「思ひ出でたり此所にて。何某の律師貴き御声を上げて。陀羅尼読みたりし事。今のやうに思ひ出でらるゝぞや。阿檀陀意。 地「檀陀婆地。 シテ「檀陀婆帝。(序の舞) シテ「得聞是陀羅尼者。当智普賢神通之力。 地「若但書写。是人命終。当生忉利天。是時八万四千の天女。伎楽の声々有難や。(破の舞) シテ「嵐にしたがふ木々の落葉。 地「嵐にしたがふ木々の落葉は。簫瑟を含み。 シテ「石に濺ぐ。 地「飛泉の声は。 シテ「雅琴を弄ぶ。 地「伎楽の遊び。 シテ「法の御声。 地「合ひに合ひたり虫の音鹿の音。滝つ響きも一つに乱るゝ。小野の千草の。露に立ち添ふ野分の風に。錦を飾りし梢のもみぢ。錦を飾りし梢のもみぢ葉。木陰の落葉と朽ちにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著