湛海
ワキ 鬼一法眼 トモ 従者 シテ 長谷部湛海 子方 沙那王 地は 京都 季は 雑 ワキ詞「かやうに候ふ者は。二条堀川に居住仕り候ふ鬼一法眼とは我事なり。さても故左馬の頭義朝の八男。沙那王殿と申すは。某師弟の契約仕り候へども。いさゝかの子細候ふ間。ひそかに討つて捨てばやと存じ候。然れども兵法勝れ給ひ。麤忽には叶ひ難く候ふほどに。婿にて候ふ長谷部の湛海。彼は器量第一の者にて候ふほどに。彼を頼み討たせばやと存じ候。いかに誰かある。 トモ詞「御前に候。 ワキ「汝は北白川湛海坊へ参り。少し談ずべき事の候ふ間。御出であれと申し候へ。 トモ「畏つて候。 トモ詞「如何に此内へ案内申し候。 シテ詞「誰にて渡り候ふぞ。 トモ「鬼一法眼よりの御使にて候。申し談ずる事の候ふ間。唯今御出であれとの御事にて候。 シテ「心得てある。やがて参らうずるにて候。 トモ「如何に申し上げ候。湛海の御出でにて候。 ワキ「此方へと申せ。 トモ「畏つて候。かう〳〵御通りあれとの御事にて候。 シテ「さて唯今は何の為めの御使にて候ふぞ。 ワキ「さん候唯今申し入るゝ事余の儀にあらず。内々申す如く沙那王殿某が秘蔵の兵法の一巻を盗み取り候ふ程に。彼者をひそかに討ち取り。巻物をも奪ひ返さばやと存じ候。誰々と申すとも。貴方ならでは沙那王を討つべき人はおぼえず候ふ間。さて申し入れ候。 シテ「言語道断の事にて候ふ物かな。此上は某が手にかけ討ち取り候ふべし。御心安く思し召され候へ。たとひ猛威を振ふとも。やはか討ち損ずる事の候ふべき。 ワキ「誠に頼もしき御事にて候。さらば沙那王をすかし出だし。五条の天神へつかはし候べし。御身も跡より御忍びあつて。あれにて討つて賜はり候へ。 シテ「実に此上はともかくも。片時も急ぎ申すべし。御心安くおぼしめせ。 地「御心安くおぼしめせ。さらばよ鬼一是までぞ。彼小冠者を討たずは。此後御目に懸かるまじ。手取りにせんと広言し。座敷を立つて湛海は。帰る心ぞ恐ろしき。〳〵。 子方一声「さても沙那王は。師匠の仰せに従ひて。五条の天神へ参らんと。 地「夕顔の花の宿。〳〵。五条あたりのあばらやの。其跡訪へば黄昏に。よそ目はせじな一筋に。頼む誓ひの末清き。五条の神に詣でけり。〳〵。 後ジテ一声「待つほどは苦しき物か郭公。一声急げ暁の空。されば湛海其夜の出で立ちには。黒糸威の腹巻に。白柄の長刀うちかたげ。沙那王おそしと待ち居たり。 子「かくとも知らで沙那王は。神前を拝し奉り。立ち帰らんとせし処に。 シテ詞「湛海早く見つけつゝ。すはや是ぞと近づきより。如何に沙那王殿。夜陰の帰るさの覚束なさに。御迎へに湛海参りたりと。さもあらけなく云ひければ。 子「あら思ひよらずや。我身に取つて湛海に意趣はなし。さては鬼一が下知にしたがひ。某が討手に向ひしよな。如何に湛海。いかなる意趣の有りて。我を討たんと思ふぞや。 シテ「あら事々しや意趣までもなし。お事のたくみ顕はれたり。尋常に勝負あれ。日頃の広言唯今なるぞと。長刀やがて取り直し。 地「長刀やがて取り直し。無慙や小冠者嵐となさんと。踊り上つて切り払ふ。元より沙那王騒がばこそ。日頃ならひし秘術は。今こそこゝにあらはし衣の。飛鳥の翔りに。左足をつかひて切り給へば。湛海も大長刀を。水車に廻してかゝれば。ちやう〳〵と透間を切り。さばかり猛き湛海も。御曹司の小太刀に切り立てられて。あきれはてゝぞ立つたりける。さても無念の次第やな。〳〵と。走りかゝつて突けばはづし。討てば飛び。乗すれば乗つて手もとにより。しさつて払へば飛び上り。飛行自在に戦ひ給へば。今は湛海勢力尽きて。頼む長刀打ち落とされ。組まんとすれば切り払ふ。かげろふ稲妻姿を失ひ。たゞよふ処を首打ち落とし。喜び勇みて牛若は。〳〵。鞍馬へ帰らせ給ひけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著