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丹後物狂

世阿弥作


シテ 岩井某
トモ 従者
ワキ 筑紫の人
ヲカシ 里人
子方 花松


シテ 前に同じ
ワキ 前に同じ
子方 前に同じ

地は 丹後
季は 雑

シテ詞「是は丹後の国白糸の浜に。岩井の何某と申す者にて候。我いまだ子を持たず候ふ間。橋立の文珠に一七日参籠申し。祈誓仕り候へば。或夜の霊夢に。松の枝に花を添へて給はると見て。程なく男子をまうけて候。御霊夢に任せ。名をも花松と付け申し候。又学問の為めに。あたりちかき成相寺と申す山寺に上せ置きて候。久しく対面せず候ふ程に。寺より呼び下して候。此方へ呼び出だし学問の様をも尋ねばやと存じ候。いかに誰かある。
トモ「御前に候。
シテ「花松を寺より呼び下せよと申しつるが下りて有るか。
トモ「さん候はやゆふべ是へ御下りにて候。
シテ「何とて某には申さぬぞ。
トモ「ゆふべは御酒気に御座候ひつる間。さて申し入れず候。
シテ「実に〳〵ゆふべはちと酔ひて候ふよ。さらば花松を是へ呼び候へ。
トモ「畏つて候。いかに花松殿。御前へ御参り候へ。
シテ「久しく見候はねば抜群に成人して候。いかに花松。汝を寺より呼び下す事余の義にあらず。学問をばなんぼう御きはめ候ふぞ。
子「我学問の奥義は知らず。経論聖教は申すに及ばず。歌道の草子八代集。習ひ覚えて候。たゞし法華には法師品。又内典には倶舎論のうち。七巻いまだ覚えず候。
シテ「是はねんなう覚えて候。又花松が学問の事は申すに及ばず。又ことなる事に何事か能のある。
トモ「さゝら八撥が御上手にて候。
シテ「やあかしましそれは汝が子の事にてあるか。
トモ「いや花松殿の御事にて候。
シテ「是は誠か。やあ花松心をしづめて聞き候へ。それ児の能には歌連歌の事は申すに及ばず。鞠小弓などまでは子細なし。さゝら八撥など申す事は。鉾のもとにて囃す京わらんべのわざにてこそ候へ。学問のやうを尋ぬる処に。法華経には法師品。又倶舎論のうち七巻覚えぬと承る。其さゝら八撥のひまに。など七巻をば覚えぬぞ。いや〳〵言葉おほきものは品すくなし。総じて今日よりは某が子にては有るまじいぞとよ。急いで立てとこそ。いや〳〵得罷り立ち候ふまじ。某罷り立てうずるにて候。(中入)
ワキ、子次第「旅に雪間を道として。〳〵。我古里に帰らん。
ワキ詞「かやうに候ふ者は。筑紫彦山の麓に住居仕る者にて候。又是に御座候ふ御方は。我一とせ丹後の国に上り候ひし時。橋立の浦に御身を投げさせ給ひしを。取り上げ助け申し筑紫に下り。彦山に登せ置き候ふ処に。利根第一の人にて。今は学問の奥儀を御極め候。又ある日のつれ〴〵に。我は丹後の国白糸の浜に。岩井の何某と申しゝ人の只独子にて御座候ふが。かやう〳〵さる子細により此国に御下り候。今一度本国に帰り。父母の御行方を御尋ねありたき由仰せられ候ふ程に。我等御供申し。唯今丹後の国白糸の浜へと急ぎ候。はる〴〵の御旅にて候へども。父母に御対面あるべく候ふ間。御心安く御急ぎあらうずるにて候。日をかさねて急ぎ候ふ間。程なう白糸の浜に着きて候。是に暫く御待ち候へ。父母の御在所を尋ねまゐらせうずるにて候。いかに此あたりの人のわたり候ふか。
ヲカシ「誰にて渡り候ふぞ。
ワキ「此処に岩井殿と申す人の御座候ふか。
ヲカシ「さん候。此処は岩井殿の御在処にて候へども去る事あつて。今は夫婦共に此処には御座なく候。
ワキ「それは何と申したる事にて候ふぞ。
ヲカシ「一子を失ひ夫婦共に行がた知らずなり給ひて候。
ワキ「言語道断の事にて候。いかに申し候。岩井殿の事を尋ね申して候へば。夫婦共に此処には御座なきよし申し候。実に〳〵御落涙尤にて候。しからば父母の御為めに。此文珠堂にて一七日御説法あらうずるにて候。若しいまだ此世に御座候はゞ御逆修ともなり候ふべし。急いで御説法候へ。いかに此あたりの人々。貴き知識の文珠堂にて一七日御説法候ふぞ皆々御参り候へ。
後ジテ「物に狂ふも五臓故。脈のさわぎと覚えたり。春の脈は弓に弦をかくるが如く狂ふにぞ。ありかも匂ひもなつかしき。咲き乱れたる花どもの。物言ふことはなけれども。けいやうげきして影くちびるをうごかせば。花の物いふは道理なり。如何に花松々々。なふ〳〵そなたへ年よはひ十四五ばかりなる児や迷ひ行き候ひし。何そなたへも見えぬとや。あらふしぎや。我子の花松は。寺にも見えず里にもなし。さていづくへ行きて候ふぞ。あら何ともなや。総じて親の子を思ふ程かたくなゝる物は候はじ。我子の花松を寺より呼び下し学問の様を尋ねしに。そんじやう其文々習ひ覚えたると申す。父が悦喜此事なりしに。よしなきものゝ候ひて。あの児こそさゝら八撥の上手と申す。児の能にさゝら八撥と申すがちと心にかゝりて。あら〳〵と叱りて候へば。をさな心にもあらなさけなや。たま〳〵寺より下りたるものをと思ひ。父を恨み此橋立の海に身を投ぐる。酔ひさめてあわてさわぎ行き見れども。前世の事にや死骸をだにも見候はで。かやうに狂ひめぐり候。其時は恨めしかりしさゝら八撥も。今は我子のかたみと思へば。なつかしうこそ候へとよ。あら我子恋しや。あら我子こひしや。何文珠堂にて説法のあると申すか。そと参りて聴聞申し候はん。
ワキ「しばらく。狂人にてある間。御説法の場へは叶ふまじきぞ。
シテ「仰尤にて候へども。物狂も思ふ筋目と申す事の候へば。御説法の間は狂ひ候ふまじ。
ワキ「さらば此所にて静に聴聞申し候へ。いかに申し候。はやこと〴〵く聴衆も参りて候。急いで御説法を御初めあらうずるにて候。
子「既に時刻になりしかば。導師高座にあがり。発願の鉦うちならし。謹み敬つて白す。一代教主釈迦牟尼宝号。三世の諸仏。十方の薩埵に申してまうさく。総神分に阿弥陀仏名。
シテ「阿弥陀南無阿弥陀。
地「阿弥陀南無阿弥陀仏と。狂ひながら申さば。逆縁なりと浮まん。
ワキ詞「さらばこそ狂ふまじきと申しつるが。狂うて説法の座敷をばつと醒まいて候。かゝる思ふ事もなげなる物狂ひこそなけれ。
シテ「何おもふことなげなる物ぐるひとや。
ワキ「さておもふ事なげなる物狂ひよ。
シテ「あう面白し〳〵。お叱りあらば只も御叱りなうて思ふ事なしとは。此橋立をよむ歌か。
地「おもふ事。〳〵。なくてや見ましよざの海の。天の橋立都なりせば。都鳥と申すは。在中将の筆の跡。子をよめる歌なり。我等も子のとぶらひにや。南無阿弥陀仏。
ワキ「いかに狂人。我等も子の弔ひと申すが。導師の御耳にさはりて候。先づ狂人の身のいにしへを申し候へ。其後導師の身のいにしへを。因縁説法に御語りあつて聞かせられうずるにてあるぞ。急いで物語申し候へ。
シテクリ「それ親の子をおもふ事。人倫にかぎらず。
地「焼野の雉夜の鶴。梁の燕に至るまで。子故命を捨つるなり。
サシ「我等もゝとは此国の。近きあたりに住みしなり。
地「わざと其名は申すまじ。子のなき事を歎き。かの御本尊に祈りをかけ。ひとりの男子を設くる。
シテ「たま〳〵相生す一子なれば。
地「かざしの花たなごゝろの玉。袖の上の蓮華と。又たぐひなきあまりに。にくまざるに叱り。おもはざるに勘当せしは。これぞ狂乱の始めなる。
クセ「子は幼き心に。諫むるをば知らずして。誠に憎むぞと心得。夜にまぎれて家を出で。かの橋立に立ちわたり。浦の波間に身を投ぐる。父母後悔千万にて。せめて変れる姿をも。相見ばやと思ひて。はてし所を尋ぬれども。うたかたの。波間に消てあともなし。思ひのあまりに。心空にあくがれて。狂人となりぬれば。夫婦共に家を出で。国をめぐりて尋ぬれど。其面影のなければ。いとゞ涙も古里に。二たび立ち帰りて。此橋立に参りつゝ。
シテ「うらめしの御本尊や。
地「かほどに縁のなき子をば。何しにたび給ふぞと。故もなき文珠に。向ひて恨みかこちて。せめて我子の沈みし。一つ所に身を投げて。浄土の縁となりなんと。思ひ切りたる我等なり。導師もあはれみて。我跡とひてたび給へ。
ワキ詞「いかに申し候。さらば急いで因縁説法を御述べあらうずるにて候。
子「当国のうち白糸の浜に。岩井の何某と申す人の候ひけるが。ひとりの子を持ち。すこし学問に疎しとて勘当せられし程に。父を恨み此海に身をなげし所を。折節筑紫舟の船頭取り上げ。筑紫に下り彦山に登り。学問の奥儀を極め。又此国に帰りて問へば。父母の行方知らずと申す程に。親の為めに七日の説法を述べ。其後身を投げ空しくなるべしと。思ひ切りたるは。此法師が身の上にて候。
シテ「あれは我子の花松と。いはまほしくは思へども。姿に恥ぢてかなはず。
子「よく〳〵見れば面影の。其いにしへにたがはねば。講座の上をこぼれ落つ。
シテ「あれは我子か。
子「父御前か。
地「実に面影の花松かとて。抱きあひて倒れ伏す。さてあるべきにあらざれば。〳〵。我古里に立ちかへり。もとのごとくに栄えけり。是も思へば橋立の。大聖文珠の利生なり。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著

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