長兵衛尉
シテ 長谷部信連 ヲカシ 頼政の使者 ワキ 越中前司守俊 地は 京都 季は 五月 シテ「頃は五月の十日あまり。軒端の菖蒲浅茅生の。忍ぶにまじる草までも。乱れがはしき世の中かな。 歌「げにや世の中は。とにもかくにもなりぬべし。〳〵。宮も藁屋も果しなき。心を知れば今更に。驚くべきにあらねども。騒がしき世の中々に。心苦しき住居かな。〳〵。 ヲカシ「如何に申し候。 シテ「何事ぞ。 ヲカシ「源三位頼政よりの御状にて候。急いで御覧候へ。 シテ「あら心得がたや。やがて見うずるにて候。や。言語道断の事。御返事までもなし。心得申すと申し候へ。やがて此由を披露申さうずるにて候。いかに申し上げ候。唯今頼政方より状をこし候。御謀叛すでに顕はれて。六波羅より今夜討手を向け候ふ由申し候ふ間。急いで何方へも忍ばせ申せとの状にて候。如何に皆々へ申し候。是はゆゝしき御大事にて候。おの〳〵然るべきやうに御談合あらうずるにて候。 ヲカシ「げに是は一大事の事にて候。然るべきやうに信連計らひ申され候へ。 シテ「我に存じ候ふは。御姿にては如何にて御座候ふ間。御冠御衣をも脱がせ申され。御絹をふか〴〵とかづかせ参らせられ。さらぬやうにて御出で候はゞ。たゞ女性衆とならでは人も存じ候ふまじ。さやうに御沙汰候ひて。何方へも忍ばせ参られ候へかし。 ヲカシ「げに是はことわりにて候。さらばやがて御衣をぬがせ申さうずるにて候。 シテ「さらば急いでさやうに御沙汰候へ。某は一人是に残り候ひて。御所中の見苦しき物ども取りひそめ。やがて御跡より追つゝけ参らせうずるにて候。 ヲカシ「心得申し候。 地「宮は信連が教にまかせ。御衣と冠をぬぎ捨てゝ。助の大夫を御供にて。高倉表の御門より。足早になりて出で給へば。痛はしやさるにても。習はせ給はぬ徒歩はだし。日月も地に落ち給ふかと。浅ましや。 シテ「や。是に御秘蔵の笛を忘れ置かれて候。追ひ附き申し参らせうずるにて候。如何に申し候。御笛を是まで持ちて参りて候。さらばまづ〳〵御暇を給はり。罷り帰りやがて追ひ付き申すべしと。 地「申しもあへず信連は。こゝより走り帰れば。さすがに君の御別れ。今を限りと思ふ故。暫しは跡をかへり見る。〳〵。 ワキ一声「藤波の。かゝれる松の梢をも。嵐やよせて散らすらん。 詞「抑是は。越中の前司守俊とは我事なり。さても宮の御謀叛既にあらはれ給へば。急ぎ御供申せとの六波羅よりの使に。守俊が是まで参りたり。疾く〳〵出でさせ給ふべしと。高らかにこそ呼ばゝりけれ。 シテ「其時信連中門に出で。宮は是にはましまさず。急いで帰り給ふべし。 ワキ「いや〳〵如何に宣ふとも。唯打ち入り取り申せと。 地「寄手の兵我さきにと。御門の内に乱れ入る。 シテ「狼籍なれやおのれらよ。 地「狼籍なれやおのれらよ。知らずや宮の侍に。長兵衛尉長谷部信連是にありと。狩衣の紐引つ切つてかなぐり捨て。ようの太刀をするりと抜いて。折妻戸を手楯に取つて。向ふ敵を待ち受けたり。時しも頃は五月の十五夜。雲間の月のさしあらはれて。外面は明しや陰は暗し。こゝに追つ詰めかしこに追つ掛け。究竟の兵を。矢庭に三騎切つて落し。太刀打ちゆがめば押し直し。残の兵を。門よりあらはに切り出だせば。太刀はこらへず打ち折つたり。信連自害せんと。腰の刀に手をかくれば。鞘巻落ちてなかりけり。此上は力なしと。あきれて庭に立ちたりしを。長刀もちたる兵。あますまじとて追かけたり。物々しや乗らんと思ひ。走りかゝつてゆらりと乗れば。何とかしたりけん。左の股を縫ひざまに。長刀に貫かれ。心は猛く思へども。敵大勢落ちかさなり。手とり足とり縄打ち掛けて。六波羅さしてぞ帰りける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著