調伏曽我
宮増作 前 ツレ 源頼朝 立衆一同 従者 シテ 工藤祐経 ワキ 箱根の別当 子方 箱王丸 後 ワキ 前に同じ ワキヅレ 従僧 シテ 不動明王 地は 相模 季は 雑 一同次第「海山かけて行く雲の。〳〵。箱根の寺に参らん。 頼朝詞「抑是は兵衛佐頼朝とは我事なり。 一同「夫れ治まれる御代のしるし。東南に雲をさまつて。西北に風静かなり。 頼朝「ことさら当時一統の。道も直なる文武の二つ。 一同「何も叶ふ時代とて。 頼朝「国見も是か坂峰や。 一同「箱根詣での御為めに。 頼朝「明くるを待つや星月夜。 一同道行「鎌倉山を朝立ちて〳〵。まだ有明の影残る。雲こそ匂へ朝日影。西に向ひて行く雲の。富士の高根の程を知る。足柄山を分けすぎて。梢に浪を湖や。箱根山にも着きにけり。〳〵。 シテ詞「やがて御社参あらうずるにて候。 ワキサシ「此程の日数待たれて今日すでに。鎌倉殿の御参詣。是を物見と此寺の。老若の衆徒児童。数をつくして我も〳〵と。皆面々に誘へば。 子「人なみ〳〵に箱王も。かたへの児にさそはれて。講堂の庭に立ちいづる。 詞「如何に申すべき事の候。 ワキ詞「何事にて候ふぞ。 子「鎌倉殿の御参詣。たまさかの御事にて候。御供の人々の名を知らず候。教へて賜はり候へ。 ワキ「易き間の事御尋ね候へ教へ申さう。 子「先づ一番に風折召され。念誦気高く見え給ふは。鎌倉殿にて御座候ふか。 ワキ「あれこそ鎌倉殿候ふよ。なんぼういみじき御威光にて候ふぞ。 子「さて御供の人々の。二行に列座せられたり。先づ左の座上をば誰と申し候ふぞ。 ワキ「あれは鎌倉殿の御舅北条殿候ふよ。 子「左巴は。 ワキ「宇都宮の弥三郎。 子「右巴は。 ワキ「小山の判官。 子「松川は。 ワキ「小笠原。 子「さて又中座の一番は。 ワキ「諸司の別当梶原父子。 子「香の直垂二人はたそ。 ワキ「一人の大男は和田の左衛門。今一人は秩父の庄司重忠。 子「さて其次につき出だしたる扇づかひ。 ワキ「今此方を見候ふや。 子「あれをば誰とか申し候ふぞ。 ワキ「あれこそ工藤一郎。 子「祐経候ふか。 ワキ「暫く。かやうの所に久しくは御座なき物にて候。此方へ御入り候へ。 シテ詞「あら珍しや箱王殿。御身の父河津殿は。赤沢山の狩くらにて。尾越の矢にあたりて空しくなり給ひたるを。某がしわざとばつと風聞仕り候。弓矢八幡箱根権現も照覧あれ。某は存ぜず候。 子「さてみづからが敵をば誰とか申し候ふぞ。 シテ「いや敵とは夏引の糸。筋なき人の言事を。かまひて用ひ給ふなよ。 子「用ひはせずと世がたりの。天に口なし人の言事。 シテ詞「それをも承引し給ふなと。 子「彼古武者の祐経に。 シテ「泣いつ笑うつすかされて。 子「さばかり猛き。 シテ「箱王も。 地「幼き身のかなしさは。誠しやかに言ひなされて。心もよわ〳〵と。あきれはてたる気色かな。 地「さて頼朝は御座を立ち。〳〵。早御下向有りしかば。御供の侍面々に。門前さして出でければ。 子「箱王は只一人。 地「講堂の庭に彳みて。敵の跡を見送りて。泣くより外の事はなし。〳〵。 子詞「よく〳〵物を按ずるに。げに我ながら後れたり。今此時の折を得て。祐経が手にかゝらんと。同宿の太刀を盗みとり。 地「敵の跡を慕ひつゝ。駒の蹄にかゝらんと。門前さして追うて行く。〳〵。 ワキ詞「言語道断。かゝる聊爾なる御事にて候。さやうの御心中有るならば。敵の前のたふれなるべし。只先帰りたまへとて。 地「手とり足とりいざなひ。別当の坊に帰りけり。〳〵。 ワキ「抑仏陀の御誓願。本より衆生の所願を満てゝ。 ツレ「是も年月思ひ深き。 ワキ「箱根の海の恨みをなす。 ツレ「敵を亡ぼしたび給はゞ。 ワキ「悪魔降伏の御誓ひ。 ツレ「悪しきを平らげ善きを助くる。 ワキ「其御威光を頼まんと。 ツレ「こゝはの行者。 ワキ「十余人。 地「護摩の壇上をかまへつゝ。〳〵。凡そ飛ぶ鳥をも。落すばかりと面々に。刃の験徳を顕はして。 地「年頃たのみを懸くる大聖不動明王の。火焰に愚老が其身を焦がし。五智の如来に五体を投げ。大威徳の乗り給ふ。水牛の角に命をかけ。頭を傾け数珠をもみ。薬師の真言千手の陀羅尼。妙音声を高くあげ。 ワキ「東方。 後ジテ「抑是は。中央に立つて悪魔を降伏し衆生を守る。大聖不動明王。矜伽羅制多伽を始めとして。 地「五壇の上に顕はれ給へば。 シテ「護摩の煙。 地「不動の火焰。 シテ「光明赫奕として。 地「気色もあらたに五大尊の。四面の仏前に顕はれ給ひて。かの形代を調伏し給ふ。あら有難や怖ろしや。 地「山河草木震動し。山河草木震動して。箱根の海山の。御法もおのづから。実相の色を顕はし。自性の月の光を添へて。護摩の煙の上も隈なき。鈴の声耳に通じて。明々とすみやかなり。 シテ「東方の降三世明王は。 地「降三世明王は。青蓮のまなじりに悪魔を降伏して。壇上に翔り給へば。南方の軍荼利夜叉は。火焰のほのほを吹きかけ給へば。大威徳は水牛の。角振りたてゝ顕はれ給へば。北方の金剛夜叉は。寒風の鉄雨を降らして。大紅蓮の責めをなせば。中央の大聖不動は。さつくの縄にて祐経が。形代を巻き縛り。護摩の壇上に引き伏せて。利剣を振りあげ刺し通して。猶厳重の奇特を見せんと。形代が首を切りて。剣の先につらぬき給へば。身の毛もよだちて面々に。目をおどろかす有様なり。さてこそ遂には箱王も。〳〵。其本望をば遂げにけれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著