月乙女
シテ 天人 ワキ 下京辺の者 ワキツレ 同 所 京 時 中秋 次第「秋も半ばの暮待て。〳〵。月に心や急ぐ覧。 ワキ「是は下京辺のものにて候。我雪月花の色を好み。常にもてあそび候。殊に今夜は八月十五夜。明月にて候程に。若き人々をあつめ。月下に酒を酌。たのしまばやと存候。 歌「夕風過る月影の。〳〵。早出初て面白や。万里の空も隈なくて。焉くの秋も隔てなき。心も消て夜もすがら。三五夜中新月の色。二千里の外の故人の心。 シテ、一声「荒面白の折からやな。明ば又。秋の半もすぎぬべし。今宵の月のおしきのみかは。 ワキ「不思議やみれば類ひなき。姿こと成御有さまにて。玉の簪あたりもかゞやき。月に映じて立寄給ふは。いかなる人にてましますぞ。 シテ「是は今宵の月のかげに映じて。上界の天女あらはれ出て。仮にまみゆるばかり也。 ワキ「是は奇特の御事なり。さばかりならぬ空の上。 シテ「天津乙女のまれに来て。 ワキ「返すや袖のたをやかに。月の光りを奪ふかと。 同「おもほえず。夢かとばかり見し夜半の。〳〵。月の桂の。天津人。あらはれ出し君が代は。実浅からぬ時津風。雲ふき払ふ秋の夜の。長き奇特は是ならん。〳〵。 ワキ「寔に妙成御事にて候。是偏に月に乗じ心を移す故成べし。迚もの事に月宮殿のまひを御撫候へ。 シテ「我仮初に下界に下り。世に例なきまひの曲。顕し人にま見えんことは叶ひがたし。さりながら。末世の奇特によもすがら。舞曲をあらはし見せ申さん。 同「迚もま見えし花の袖。〳〵。また顕はれて有明の。月の都の小忌衣。重て返し申べし。必ず待せたまへやと。云かと見ればうちわたす。もみぢのはしをのぼりこえ。雲に隠れてうせにけり。〳〵。 ワキ「嬉しきかなやいざ更ば。〳〵。月も照そふ秋の夜の。空の気色もおりからに。有つる告を待て見ん。〳〵。 後シテ一声「君が代は。尽じとぞ思松が枝の。幾十返りの色深く。猶光りそふ天が下。 同「実妙なりや乙女の袖。〳〵に。月澄わたる秋の夜の。もみぢも袖も。朱をうばふや。花むらさきの空のいろ有分野哉。(破の舞) 同「既に明行名残の曲。〳〵。とり〴〵なれや天津乙女。帰る名残をやゝ吹とぢよ。雲の通ひ路又うきぐもに。あがると見えしが少時は天の。羽袖を返し〳〵て。明行雲間にかくれけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『宴曲十七帖 謡曲末百番』国書刊行会 編