土車
世阿弥作 ワキ 深草少将 シテ 乳父小次郎 子方 若君 狂言 里人 地は 信濃 季は 雑 ワキ次第「夢の世なれば驚きて。〳〵。捨つるや現なるらん。 詞「かやうに候ふ者は。深草の少将がなれる果にて候。我妻におくれ。浮世あぢきなくなり行き候ふ程に。一子を捨てかやうの姿となりて候。我世に在りし時より。善光寺への望みにて。此程は信濃の国に候ふが。今日もまた御堂へ参らばやと思ひ候。 シテ一声「如何にあれなる道行き人。善光寺への道教へてたべ。なに物狂ひとや。よしさ思し召されんに付きては。猶御情は有明の。つれなくも御通り候ふものかな。 詞「是に御入り候ふは主君にて御座候ふが。父を失ひ彼方此方を御尋ね候。是を憐みてたび給へ。あら笑止や又むつかり候ふよ。いや〳〵さやうに心弱くむつかり候はゞ。今日よりしては御供申すまじく候。 子詞「如何に乳父。今日よりしては泣くまじいぞとよ。 シテ「あらいとほしや。さあらば何処までも御供申し。父御に逢はせ参らせ候ふべし。痛はしやいにしへは。鸞輿属車に召されし御身の。名も高かりし日月も。地に遠近の土の車。引きかへしたる有様かな。諸仏念衆生。衆生不念仏。 シテ、子次第「住まで世に経る土車。〳〵。めぐるや雨の浮雲。 地「住まで世に経る土車。〳〵。めぐるや雨の浮雲。 子サシ「是は都の辺り深草の者にて候ふが。思ひの外に父を失ひ。諸国をめぐり候ふなり。 シテ「悲しきかなや生死無常の世の習ひ。一人に限りたる事はなけれども。 二人「悲しみの母は空しくなり。残る父さへ幾程なく。思ひの家を出で給へば。其行き方をも白雪の。跡を尋ねて迷ふなり。 シテ「あはれや実にいにしへは。花鳥酒宴にまどはされ。春秋を送り迎へし御身の。かくあさましくなりぬれば。僅なる露の命を残さんと。 下歌「念仏申し鼓を打ち。 地「袖をひろげ物を乞ふ。 上歌「心を人の憐まば。〳〵。尋ぬる父の行方を。教へてたばせ給へと。問へばはかなき憂き身ぞと。思ひながらも憂き旅を。信濃の国に聞こえたる。善光寺にも着きにけり。〳〵。 狂言「如何に是なる狂人。面白う狂ひ候へ。 シテ「いや今は狂ひたうもなく候。 狂言「御身はすねたる事を申す物かな。物狂ひなれば狂へと申す。唯狂うて見せ候へ。 シテ「いや〳〵狂ひ候ふまじ。 狂言「さては狂ふまじきか。近頃にくき事を申すものかな。狂ふまじきならば。此如来堂には叶ふまじきぞ。急いで出で候へ。いや〳〵御堂ばかりは曲もなく候。此国には叶ふまじ。此国ばかりは猶も狭く候。総じて天下に叶ふまじきとよ。 シテ「何と天が下に叶ふまじきと候ふや。恐れながら御事の身として。天が下に叶ふまじとは思ひもよらぬ仰せかな。往昔天智天皇の御宇かとよ。千方と云ひし逆臣ありしが。其身も勢ひ有りし上。四つの鬼を使ひしかば。攻むべき様もなかりしに。藤原の朝臣一首の歌を書き。鬼の城に遣はす其歌に。土も木も我大君の国なれば。何処か鬼の宿と定めん。 地「此歌の理に。〳〵。鬼もめでゝ去りぬれば。千方も亡び候ひて。一天四海波を。打ち治め給へば。国も動かぬ荒金の。土の車の我等まで。道せばからぬ大君の。御影の国なるをば。一人せかせ給ふか。 シテ「殊更当国信濃路や。 地「木曽の桟かけて実に。頼みも危からぬ。法の声立てゝ猶。諸人の憐み他の力。洩らさじ物を弥陀仏の。御影も普く。憐ませ給へ人々。憐みの中にも。此御仏ぞ上なき。仏は衆生を。一子と思し召さるれば。殊更我等が。影頼み頼む中にも。弥陀は母にてましませば。父にも逢はせて。たばせ給へ南無阿弥陀。 シテ「阿弥陀仏。 地「阿弥陀仏。歌舞の菩薩声々に。花の振鼓。篳篥笙の笛和琴。声をあげて叫べども。父とも答へず。哀とだにも知らざれば。よしそれまでぞ。さゝらも八撥をも。打捨てゝ狂はじ。皆打ち捨てゝ狂はじ。 ワキ詞「不思議の事の候。是なる物狂を如何なる者ぞと思ひて候へば。故郷に留め置きたる一子にて候。又此方なるは乳父の小次郎にて候。あら不便と衰へて候ふや。やがて名乗つて悦ばせばやと思ひ候。や。あら何ともなや。一度思ひ切りたる道に。又輪廻の心の出で来て候ふは如何に。今逢ひ見たらば終の別れ。今逢ひ見ずは終の悦び。誠に三界の絆を。 地「こゝにて切ると思ひなし。南無阿弥陀仏と称へて。さらぬやうにて行き過ぐる。〳〵。 シテ詞「いかに申し候。是まで父御をば尋ね参らせて候へども。父御に似たる人さへ御座なく候。さて何と仕り候ふべき。 子詞「今は命も惜しからず。前なる川に身を投げ空しくならばやと思ひ候。 シテ「実に〳〵けなげにも仰せ候ふものかな。さらば御供申し身を投げ候ふべし。さりとも善光寺にては尋ね逢ひ参らせうずると存じ候へども。今は早某も退屈仕りて候。今宵は如来の御前にて。御心静かに念仏を御申し候へ。明けなば川へ御供申し候ふべし。 地クリ「それ生死輪廻の根元を尋ぬるに。有相執着の妄念より起れり。 シテサシ「己れと心に迷うて流転無窮にして。 地「車の庭に廻るが如し。昇沈不定にしては。鳥の林に遊ぶに異ならず。 シテ「悲しきかなや我等今。人界に生を受くとは云ひながら。 地「見仏聞法の結縁をもなさゞれば。未来の楽しみも。いかゞと思ひ知られたり。 クセ「凡そ弥陀の悲願には。破戒闡提をも洩らさず。一念十念の間に。彼国に迎へ取るべしと。五劫思惟の本願なり。 シテ「さればにや其心。 地「極重悪人無他方便。唯称弥陀得生極楽と。説かせ給へる。此理に任せつゝ。我等を助けおはしませ。〳〵。 シテ詞「思ひ切りたる事なれば。二人は手に手を取りかはし。川の辺に立ち出づる。 ワキ詞「思ひ切りたる事なれども。又引きかへす心地して。門前さして追うて行く。 シテ「すは早川も近づきぬと。二人は西にうち向ひ。既に憂き身を投げんとす。 ワキ「あゝ暫しとて引き留むる。 シテ「有りて憂ければ捨つる身を。留め給ふは中々に。我等が為めには憂き人なり。 ワキ「今は何をか包むべき。是こそ父の少将よ。 シテ「更に誠と白雪の。故郷の名は。 ワキ「深草の。 地「葉末の露の消えもせで。命のあれば又父に。逢ふこそ嬉しかりけれ。逢ふ事の。もし夢ならばいかにせん。現になり行かば。またもや父に別れなん。 地「ともに命のながらへて。又廻り逢ふ小車の。別れし時の憂き思ひ。今逢ふ事のうれしさを。何にたとへん方も渚の波。夜昼恋ひし我父に。逢ふこそうれしかりけれ。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著
太平記 巻第十六 日本朝敵の事
(前略)又天智天皇の御宇に藤原千方といふ者あつて、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼といふ四つの鬼を使へり。金鬼は其の身堅固にして、矢を射るに立たず。風鬼は大風を吹かせて、敵城を吹き破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺らす。隠形鬼は其の形を隠して、俄に敵を拉ぐ。斯くの如くの神変、凡夫の智力を以て防ぐべきに非ざれば、伊賀伊勢の両国、これがために妨げられて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄といひける者、宣旨を蒙つて彼の国に下り、一首の歌を詠みて、鬼の中へぞ送りける。 草も木もわが大君の国なればいづくか鬼のすみかなるべき 四つの鬼此の歌を見て、「さては我等悪逆無道の臣に随つて、善政有徳の君を背き奉りける事、天罰遁るゝ処なかりけり。」とて忽ちに四方に去つて失せにければ、千方勢ひを失うて軈て朝雄に討たれにけり。(後略) 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『校註日本文学大系 第十七巻』国民図書