能「土車」の詞章とともに、「太平記 巻第十六 日本朝敵の事」からこの曲に引かれている藤原千方の四鬼の伝説を掲載しています。
頼光三部作「大江山」「土蜘蛛」「羅生門」では、この伝説の中で詠みかけられる「草も木も わが大君の 国なれば いづくか鬼の すみかなるべき」の歌が、まつろわぬ民に王土王民思想を告げ知らせる歌として取り入れられました。
併せて内容の把握にお役立てください。

 

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土車

世阿弥作

ワキ 深草少将
シテ 乳父小次郎
子方 若君
狂言 里人

地は 信濃
季は 雑

ワキ次第「夢の世なれば驚きて。〳〵。捨つるや現なるらん。
詞「かやうに候ふ者は。深草の少将がなれる果にて候。我妻におくれ。浮世あぢきなくなり行き候ふ程に。一子を捨てかやうの姿となりて候。我世に在りし時より。善光寺への望みにて。此程は信濃の国に候ふが。今日もまた御堂へ参らばやと思ひ候。
シテ一声「如何にあれなる道行き人。善光寺への道教へてたべ。なに物狂ひとや。よしさ思し召されんに付きては。猶御情は有明の。つれなくも御通り候ふものかな。
詞「是に御入り候ふは主君にて御座候ふが。父を失ひ彼方此方を御尋ね候。是を憐みてたび給へ。あら笑止や又むつかり候ふよ。いや〳〵さやうに心弱くむつかり候はゞ。今日よりしては御供申すまじく候。
子詞「如何に乳父。今日よりしては泣くまじいぞとよ。
シテ「あらいとほしや。さあらば何処までも御供申し。父御に逢はせ参らせ候ふべし。痛はしやいにしへは。鸞輿属車に召されし御身の。名も高かりし日月も。地に遠近の土の車。引きかへしたる有様かな。諸仏念衆生。衆生不念仏。
シテ、子次第「住まで世に経る土車。〳〵。めぐるや雨の浮雲。
地「住まで世に経る土車。〳〵。めぐるや雨の浮雲。
子サシ「是は都の辺り深草の者にて候ふが。思ひの外に父を失ひ。諸国をめぐり候ふなり。
シテ「悲しきかなや生死無常の世の習ひ。一人に限りたる事はなけれども。
二人「悲しみの母は空しくなり。残る父さへ幾程なく。思ひの家を出で給へば。其行き方をも白雪の。跡を尋ねて迷ふなり。
シテ「あはれや実にいにしへは。花鳥酒宴にまどはされ。春秋を送り迎へし御身の。かくあさましくなりぬれば。僅なる露の命を残さんと。
下歌「念仏申し鼓を打ち。
地「袖をひろげ物を乞ふ。
上歌「心を人の憐まば。〳〵。尋ぬる父の行方を。教へてたばせ給へと。問へばはかなき憂き身ぞと。思ひながらも憂き旅を。信濃の国に聞こえたる。善光寺にも着きにけり。〳〵。
狂言「如何に是なる狂人。面白う狂ひ候へ。
シテ「いや今は狂ひたうもなく候。
狂言「御身はすねたる事を申す物かな。物狂ひなれば狂へと申す。唯狂うて見せ候へ。
シテ「いや〳〵狂ひ候ふまじ。
狂言「さては狂ふまじきか。近頃にくき事を申すものかな。狂ふまじきならば。此如来堂には叶ふまじきぞ。急いで出で候へ。いや〳〵御堂ばかりは曲もなく候。此国には叶ふまじ。此国ばかりは猶も狭く候。総じて天下に叶ふまじきとよ。
シテ「何と天が下に叶ふまじきと候ふや。恐れながら御事の身として。天が下に叶ふまじとは思ひもよらぬ仰せかな。往昔天智天皇の御宇かとよ。千方と云ひし逆臣ありしが。其身も勢ひ有りし上。四つの鬼を使ひしかば。攻むべき様もなかりしに。藤原の朝臣一首の歌を書き。鬼の城に遣はす其歌に。土も木も我大君の国なれば。何処か鬼の宿と定めん。
地「此歌の理に。〳〵。鬼もめでゝ去りぬれば。千方も亡び候ひて。一天四海波を。打ち治め給へば。国も動かぬ荒金の。土の車の我等まで。道せばからぬ大君の。御影の国なるをば。一人せかせ給ふか。
シテ「殊更当国信濃路や。
地「木曽の桟かけて実に。頼みも危からぬ。法の声立てゝ猶。諸人の憐み他の力。洩らさじ物を弥陀仏の。御影も普く。憐ませ給へ人々。憐みの中にも。此御仏ぞ上なき。仏は衆生を。一子と思し召さるれば。殊更我等が。影頼み頼む中にも。弥陀は母にてましませば。父にも逢はせて。たばせ給へ南無阿弥陀。
シテ「阿弥陀仏。
地「阿弥陀仏。歌舞の菩薩声々に。花の振鼓。篳篥笙の笛和琴。声をあげて叫べども。父とも答へず。哀とだにも知らざれば。よしそれまでぞ。さゝらも八撥をも。打捨てゝ狂はじ。皆打ち捨てゝ狂はじ。
ワキ詞「不思議の事の候。是なる物狂を如何なる者ぞと思ひて候へば。故郷に留め置きたる一子にて候。又此方なるは乳父の小次郎にて候。あら不便と衰へて候ふや。やがて名乗つて悦ばせばやと思ひ候。や。あら何ともなや。一度思ひ切りたる道に。又輪廻の心の出で来て候ふは如何に。今逢ひ見たらば終の別れ。今逢ひ見ずは終の悦び。誠に三界の絆を。
地「こゝにて切ると思ひなし。南無阿弥陀仏と称へて。さらぬやうにて行き過ぐる。〳〵。
シテ詞「いかに申し候。是まで父御をば尋ね参らせて候へども。父御に似たる人さへ御座なく候。さて何と仕り候ふべき。
子詞「今は命も惜しからず。前なる川に身を投げ空しくならばやと思ひ候。
シテ「実に〳〵けなげにも仰せ候ふものかな。さらば御供申し身を投げ候ふべし。さりとも善光寺にては尋ね逢ひ参らせうずると存じ候へども。今は早某も退屈仕りて候。今宵は如来の御前にて。御心静かに念仏を御申し候へ。明けなば川へ御供申し候ふべし。
地クリ「それ生死輪廻の根元を尋ぬるに。有相執着の妄念より起れり。
シテサシ「己れと心に迷うて流転無窮にして。
地「車の庭に廻るが如し。昇沈不定にしては。鳥の林に遊ぶに異ならず。
シテ「悲しきかなや我等今。人界に生を受くとは云ひながら。
地「見仏聞法の結縁をもなさゞれば。未来の楽しみも。いかゞと思ひ知られたり。
クセ「凡そ弥陀の悲願には。破戒闡提をも洩らさず。一念十念の間に。彼国に迎へ取るべしと。五劫思惟の本願なり。
シテ「さればにや其心。
地「極重悪人無他方便。唯称弥陀得生極楽と。説かせ給へる。此理に任せつゝ。我等を助けおはしませ。〳〵。
シテ詞「思ひ切りたる事なれば。二人は手に手を取りかはし。川の辺に立ち出づる。
ワキ詞「思ひ切りたる事なれども。又引きかへす心地して。門前さして追うて行く。
シテ「すは早川も近づきぬと。二人は西にうち向ひ。既に憂き身を投げんとす。
ワキ「あゝ暫しとて引き留むる。
シテ「有りて憂ければ捨つる身を。留め給ふは中々に。我等が為めには憂き人なり。
ワキ「今は何をか包むべき。是こそ父の少将よ。
シテ「更に誠と白雪の。故郷の名は。
ワキ「深草の。
地「葉末の露の消えもせで。命のあれば又父に。逢ふこそ嬉しかりけれ。逢ふ事の。もし夢ならばいかにせん。現になり行かば。またもや父に別れなん。
地「ともに命のながらへて。又廻り逢ふ小車の。別れし時の憂き思ひ。今逢ふ事のうれしさを。何にたとへん方も渚の波。夜昼恋ひし我父に。逢ふこそうれしかりけれ。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著

 

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太平記 巻第十六 日本朝敵の事

(前略)又天智天皇の御宇に藤原千方といふ者あつて、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼といふ四つの鬼を使へり。金鬼は其の身堅固にして、矢を射るに立たず。風鬼は大風を吹かせて、敵城を吹き破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺らす。隠形鬼は其の形を隠して、俄に敵を拉ぐ。斯くの如くの神変、凡夫の智力を以て防ぐべきに非ざれば、伊賀伊勢の両国、これがために妨げられて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄といひける者、宣旨を蒙つて彼の国に下り、一首の歌を詠みて、鬼の中へぞ送りける。
   草も木もわが大君の国なればいづくか鬼のすみかなるべき   
四つの鬼此の歌を見て、「さては我等悪逆無道の臣に随つて、善政有徳の君を背き奉りける事、天罰遁るゝ処なかりけり。」とて忽ちに四方に去つて失せにければ、千方勢ひを失うて軈て朝雄に討たれにけり。(後略)

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『校註日本文学大系 第十七巻』国民図書

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