天鼓
前 ワキ 官人 シテ 天鼓の父王伯 後 ワキ 前に同じ シテ 天鼓 地は 唐土 季は 七月 ワキ詞「是は唐後漢の帝に仕へ奉る臣下なり。さても此国の傍に王伯王母とて夫婦の者有り。彼者一人の子を持つ。其名を天鼓と名づく。彼を天鼓と名づくる事は。彼が母夢中に天より一つの鼓降り下り。胎内に宿ると見て出生したる子なればとて。其名を天鼓と名づく。其後天より誠の鼓降り下り。打てば其声妙にして。聞く人感を催せり。此由帝聞し召され。鼓を内裏に召されしに。天鼓深く惜しみ。鼓を抱き山中に隠れぬ。然れども何くか王地ならねば。官人を以て捜し出だし。天鼓をば呂水の江に沈め。鼓をば内裏に召され。阿房殿雲龍閣に据ゑ置かれて候。又其後かの鼓を打たせらるれども更に鳴る事なし。いかさま主の別を歎き鳴らぬと思し召さるゝ間。彼者の父王伯を召して打たせよとの宣旨に任せ。唯今王伯が私宅へと急ぎ候。 シテ一声「露の世に。なほ老の身のいつまでか。又此秋に残るらん。 サシ「伝へ聞く孔子は鯉魚に別れて。思ひの火を胸に焚き。白居易は子を先だてゝ。枕に残る薬を恨む。是れ皆仁義礼智信の祖師。文道の大祖たり。我等が歎くは科ならじと。思ふおもひに堪へかぬる。涙いとなき袂かな。 下歌「思はじと。思ふ心のなどやらん。夢にもあらず現にも。なき世の中ぞ悲しき。〳〵。 上歌「よしさらば。思ひ出でじと思寐の。〳〵。闇の現に生れ来て。忘れんと思ふ心こそ。忘れぬよりは思ひなれ。唯何故の憂き身の。命のみこそ恨みなれ。〳〵。 ワキ詞「如何に此屋の内に王伯があるか。 シテ詞「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「是は帝よりの宣旨にて有るぞ。 シテ「宣旨とはあら思ひよらずや何事にて御座候ふぞ。 ワキ「さても天鼓が鼓内裏にめされて後。いろ〳〵打たせらるれども更に鳴る事なし。如何さま主の別を歎き鳴らぬと思し召さるゝ間。王伯に参りて仕れとの宣旨にて有るぞ。急いで参内仕り候へ。 シテ「仰せ畏つて承り候ふ去りながら。勅命にだに鳴らぬ鼓の。老人が参りて打ちたればとて。何しに声の出づべきぞ。いや〳〵是も心得たり。勅命を背きし者の父なれば。重ねて失はれん為めにてぞ有るらん。よし〳〵それも力なし。我子の為めに失はれんは。それこそ老の望みなれ。あら歎くまじやゝがて参り候ふべし。 ワキ「いやいや左様の宣旨ならず。唯々鼓を打たせんとの。其為めばかりの勅諚なり。急いで参り給ふべし。 シテ「たとひ罪には沈むとも。 地「たとひ罪には沈むとも。又は罪にも沈まずとも。憂きながら我子の形見に。帝を拝み参らせん。〳〵。 ワキ詞「急ぐ間程なく内裏にて有るぞ。此方へ来り候へ。 シテ詞「勅諚にて候ふ程に。是までは参りて候へども。老人が事をば。御免あるべく候。 ワキ「申す所は理なれども。まづ鼓を仕り候へ。鳴らずは力なき事急いで仕り候へ。 シテ「さては辞すとも叶ふまじ。勅に応じて打つ鼓の。声もし出でばそれこそは。我子の形見と夕月の。上に輝く玉殿に。始めて臨む老の身の。 地次第「生きてある身は久方の。〳〵。天の鼓を打たうよ。 地クリ「其磧礫にならつて玉淵を窺はざるは。驪龍の蟠る所を知らざるなり。 シテサシ「実にや世々ごとの。仮の親子に生まれ来て。 地「愛別離苦の思ひ深く。恨むまじき人を恨み。悲しむまじき身を歎きて。我と心の闇深く。輪廻の波にたゞよふ事。生々世々もいつまでの。 シテ「思ひのきづな長き世の。 地「苦しみの海に沈むとかや。 クセ「地を走る獣。空を翔る翅まで。親子のあはれ知らざるや。況んや仏性同体の人間。此生に此身を浮べずは。いつの時か生死の。海を渡り山を越えて。彼岸に至るべき。 シテ「親子は三界の首枷と。 地「聞けば誠に老心。別れの涙の雨の袖。しをれぞ増さる草衣。身を恨みても其かひの。なき世に沈む罪科は。唯命なれや明暮の。時の鼓の現とも。思はれぬ身こそ恨みなれ。 ロンギ地「鼓の時も移るなり。涙を止めて老人よ。急いで鼓打つべし。 シテ「実に〳〵是は大君の。忝しや勅命の。老の時も移るなり。急いで鼓打たうよ。 地「打つや打たずや老波の。立ち寄る影も夕月の。 シテ「雲龍閣の光りさす。 地「玉の階。 シテ「玉の床に。 地「老の歩みも足よわく。薄氷を踏む如くにて。心も危き此鼓。打てば不思議や其声の。心耳を澄ます声出でゝ。実にも親子のしるしの声。君もあはれと思し召して。龍顔に御涙を。浮べ給ふぞ有難き。 ワキ詞「如何に老人。只今鼓の音の出でたる事。誠にあはれと思し召さるゝ間。老人には数の宝を下さるゝなり。又天鼓が跡をば。管絃講にて御弔ひ有るべきとの勅諚なり。心やすく存じ。まづ〳〵老人は私宅へ帰り候へ。 シテ詞「あら有難や候。さらば老人は私宅に帰り候ふべし。(中入) ワキ「さても天鼓が身を沈めし。呂水の堤に御幸なつて。同じく天の鼓をすゑ。 歌「糸竹呂律の声々に。〳〵。法事をなして亡き跡を。御弔ひぞ有難き。頃は初秋の空なれば。早三伏の夏たけ。風一声の秋の空。夕月の色も照り添ひて。水滔々として波悠々たり。 後ジテ一声「あら有難の御弔ひやな。勅を背きし天罰にて。呂水に沈みし身にしあれば。後の世までも苦しみの。海に沈み波に打たれて。呵責の責も隙なかりしに。思はざる外の御弔ひに。浮び出でたる呂水の上。曇らぬ御代の有難さよ。 ワキ「不思議やな早更け過ぐる水の面に。化したる人の見えたるは。如何なるものぞ名を名のれ。 シテ詞「是は天鼓が亡霊なるが。御弔ひの有難さに。是まで顕はれ参りたり。 ワキ「さては天鼓が亡霊なるかや。 詞「然らばかゝる音楽の。舞楽も天鼓が手向の鼓。打ちて其声出づならば。実にも天鼓がしるしなるべし。はやはや鼓を仕れ。 シテ「うれしやさては勅諚ぞと。夕月かゝやく玉座のあたり。 ワキ「玉の笛の音声すみて。 シテ「月宮の昔もかくやとばかり。 ワキ「天人も影向。 シテ「菩薩もこゝに。 二人「天降ります気色にて。同じく打つなり天の鼓。 地「打ち鳴らす其声の。〳〵。呂水の波は滔々と。打つなり〳〵汀の声の。より引く糸竹の。手向の舞楽は有難や。 シテ「おもしろや時も実に。 地「おもしろや時も実に。秋風楽なれや松の声。柳葉を払つて月も涼しく。星も相逢ふ空なれや。烏鵲の橋の下に紅葉を敷き。二星の館の前に。風ひやゝかに夜も更けて。夜半楽にも早なりぬ。人間の水は南。星は北にたんだくの。天の海面雲の波。立ち添ふや呂水の堤の。月に嘯き。水に戯ぶれ波を穿ち。袖を返すや。夜遊の舞楽も時去りて。五更の一点鐘も鳴り。鳥は八声のほの〴〵と。夜も明け白む時の鼓。数は六つの巷の声に。又打ち寄りて現か夢か。又うち寄りて現か夢。幻とこそなりにけれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著