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天王寺物狂

ワキ 源太仲光
子方 俊徳丸
狂言 天王寺門前の人
シテ 狂女

地は 摂津
季は 雑

ワキ次第「げに世の中はうたかたの。〳〵。あはれなりける憂き身かな。
詞「かやうに候ふ者は。河内の国高安の住人。左衛門の尉信俊殿の御内に。源太仲光と申す者にて候。さても我君宝貨身に余り。不足なき御事に候へども。一人の御子なき事を悲しみ給ひ。清水の観世音へ祈誓し給ひ。男子一人儲け給ひて候。御名をば俊徳丸殿と申し。父母の御寵愛浅からず候ふに。去んぬる頃母上空しくなり給ひて候。御愁傷の余りにや。御悩み以ての外にて。剰へ前世の宿業にやありけん。両眼しひまし〳〵て候。又こゝに難義なる事の候。八条殿の御娘を迎へ取り給ひて候ふが。昔より申す如く。継子継母の御中不和なる事多く候へば。はや俊徳殿も継母の讒言にて。天王寺辺に捨て申せとの御事にて。過ぎし頃天王寺辺へ捨て置き申し候。何ぼう痛はしき御事にて候。去る間毎日かやうに夜をこめ。天王寺へ参り痛はり申し候。今日も又参らばやと存じ候。
歌「ながめやる。月は雲井に高安の。〳〵。里をば猶もこひの松。十返り深き契りとて。別路悲し親の身の。子を思ふかや鶴が橋。渡りて行けば程もなく。天王寺にも着きにけり。〳〵。
詞「まづ〳〵本堂に参り。俊徳丸の御身の上を祈らばやと存じ候。
俊徳「みづから清光を見ざれば。時の移るをも弁へず。衣寒暖に与へざれば。膚は髐骨と衰へたり。
ワキ「如何に申し上げ候。仲光こそ参りて候へ。御悩みは何と御座候ふぞ。
俊徳「何仲光と申すかあらなつかしや。かく浅ましき有様を。我だに憂しと思ふ身を。汝なればぞ訪ひも来て。憐みを垂るゝ嬉しさよ。
地「如何なれば我はかく。父母には捨てられて。苦しみ多き其中に。かやうに人に穢なまれ。それのみならず眼しひて。通塞明闇もわきまへぬ。心ひがめる盲人と。腹悪しく思はるゝ。如何なる罪の報いぞや。三界は広けれど。身を便るべき陰もなし。げにや其かみ蟬丸の。行くも帰るも別れては。知るも知らぬも逢阪の。関とよみにしあはれさも。今身の上に白雪の。消えぬぞ恨みなりける。〳〵。
ワキ「暫く是へ御出であつて。貴賤の参詣に御心を慰められ候へ。此方へ御入り候へ。如何に門前の人の渡り候ふか。
狂言「シカ〳〵。
ワキ「御覧候ふ如く病人を伴ひ候。何にても面白き事の候はゞ教へて賜り候へ。
狂言「シカ〳〵。
ワキ「げに〳〵其物狂にて候ふべし。鳥居のあたりに人の群集し候ふよ。さらば其狂女を相待ち面白う狂はせ候ふべし。
シテ一声「我頼む。神に心の嘆かまし。身にこそつらき契りなりとも。
サシ「さりとては。書き置く跡の水茎の。岡の萱原なびけとの。其言の葉も徒に。末も通らぬ恋慕の道。
下歌地「心尽しや中絶えて。音せぬ人ぞ恋しき。
上歌「偽りの。言の葉しげき玉章は。〳〵。事を尽さぬ習ひにて。心の奥は知る人も。なしとはいへどうたかたの。消えぬ憂き身の形見こそ。今は仇なれ是なくはと。臥し沈み泣き居たる。〳〵。
ワキ「如何に是なる狂女。面白う狂うて見せ候へ。
シテ「うたてやなさなきだに。絶えぬ思ひの乱髪。結ぼれまさる我心。せめては慰め給はずして。狂へとはなど仰せあり候ふぞや。
ワキ「いつも形見の文をよみ。面白う狂ふよし聞き及び候ふ程に。今日も又文をよみ。猶々狂乱の謂れを語り面白う狂ひ候へ。
シテ「現なや恥かしや。かゝる憂き世の人目もる。山下くゞる水茎の。形見もよしや偽りの。詞の露の玉章の。引き返しても恨みこそ。残る憂き身の置処。
地「誰に訪はれん道芝の。露雪霜と時雨ゆく。雲の絶間の峰の松。見ずはつれなき。事をもいかで知らまし。
クリ「さる程に。過ぎにし二月の末かとよ。聖霊会と名づけ。此宝前にして稚児の舞の有りし時。信俊といひし人の一子。此役を勤む。
シテサシ「されば此人は。容顔殊更麗しく。
地「秘曲感応の人なれば。黄鐘調にも叶ふべしと。誠に天人も飛来し。龍神も浮ぶ粧なり。
シテ「げにや古より。
地「色には迷ひ安く。又はえならぬ匂ひには。心ときめく習ひかや。折しも松の風落ちて。御簾吹き上げし隙よりも。互に見えし面影の。是ぞ恋慕の始めなる。まだ知らぬ。人を見そめて恋衣。ひとへに恋ふる心より。海人の藻塩火たきそめて。煙も空に迷ふらし。わが恋草や茂るらん。難波の浦にあらねども。藻に埋もるゝ玉柏。顕はれてだに恋ひばやと。思ふ心はよそにのみ。峰の白雲消えかへり。絶えず苦しき思ひには。塩焼く浦の煙だに。思はぬ風に靡くとの。其水茎の形見こそ。今は仇なれ是なくは。忘るゝひまも有りなんと。よみしも理りや。猶思ひこそ深けれ。
シテ「げにや恋路のあはれさは。
地「逢はで止みにし憂さを思ひ。あだなる契をかこちては。長き終夜ひとり明かし。遠き雲井をながめやりて。浅茅が宿に。昔を忍ぶのみ。色好むとはいふべきと。つらき心の報にや。乱心の苦しやと。せん方涙に。臥し沈む事ぞ悲しき。
ロンギ地「如何にや如何に狂人の。言の葉聞けば不思議やな。若しも和泉の人やらん。
シテ「今までは。誰ともいさや白波の。立つ名も憂しとかこつ身を。如何にと問はせ給ふらん。
地「今は何をか包むべき。是こそ其名高安の。俊徳丸にて候ふなり。
シテ「かくばかり。恋の病ふの身となりて。行方いづくと知らざりし。人を逢ひ見る嬉しさよ。
地「共にそれとは思へども。変はる姿や狂人の。こなたもさすが盲目の。見るかひもなき有様。
シテ「形見ぞと。〳〵。身に添へ持ちし水茎の。跡も朽ちせぬ契りとて。二度逢ふも何故ぞ。
地「逢はぬ間はさりとては。別れの文と思ひしに。尽きぬ契りの形見こそ。妹背の中の情なれ。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

関連曲の「弱法師」には現行とは別に演出の異なる世阿弥自筆能本があり、この「天王寺物狂」は世阿弥自筆能本「弱法師」と前日譚後日譚の関係にもなり得る曲です。
両作に登場する俊徳丸を恋い慕う女性は、原話とされる俊徳丸伝説の乙姫であり、俊徳丸を中心に置く人間曼陀羅に花を添える人物です。

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