唐船 古名 祖慶官人
吉広作 ワキ 箱崎殿 ツレ(二人) 唐子 シテ 祖慶官人 子方(二人) 日本子 地は 筑前 季は 七月 ワキ詞「かやうに候ふ者は。九州箱崎の何某にて候。さても一年唐と日本の船の争ひあつて。日本の船をば唐にとゞめ。唐の船をば日本にとゞめ置きて候。某も船を一艘とゞめ置きて候。其船に祖慶官人と申す者をとゞめ置きて候ふが。はや十三回に為り候。某は牛馬をあまた持ちて候ふ程に。彼祖慶官人に申しつけ野飼をさせ候。今日も申しつけばやと存じ候。 唐子二人一声「唐船の楫枕。夢路ほどなき名残かな。 ソンシサシ「是は唐明州の津に。そんしそいうと申す兄弟の者なり。 二人「さても我父官人は。一年日本の賊船にとらはれ。昨日今日とは思へども。十三回に早なりぬ。余りに父の恋しさに。いまだ此世にましまさば。今一度対面申さんと。 下歌「思ひ立つ日を吉日と。船の纜解き始め。 上歌「明州河を押し渡り。〳〵。海漫々と漕ぎ行けば。はや日の本もほの見えて。心づくしの果にある。忍びし妻を松浦潟。波路はるかに行く程に。名にのみ聞きし筑紫路や。箱崎に早く着きにけり。〳〵。 ワキ詞「唐の人のわたり候ふか。 ソンシ詞「是に候。祖慶官人いまだ存生にて。箱崎殿に召し使はれ候ふ由承り候ふ程に。数の宝に換へ連れて帰国仕るべき為めに。唯今此所に渡りて候。 ワキ「さん候。祖慶官人は未だ存生にて候。唯今物詣とて御出で候。暫くそれに御待ち候へ。御帰り候はゞ引き逢はせ申し候ふべし。 ソンシ「さらば是に待ち申さうずるにて候。 シテサシ「如何にあれなる童部ども。野飼の牛を集つゝ。早々家路に急ぐべし。 日本子二人「かゝる業こそ物うけれ。 シテ「よし我のみか天の原。 一声「七夕の。たとへにも似ぬ身のわざの。 三人「牛牽く星の名ぞしるき。 日本子二人「秋咲く花の野飼こそ。 三人「老の心の慰めなれ。 シテ「是は唐明州の津に。祖慶官人と申す者なり。我はからざるに日本に渡り。牛馬をあつかひ草刈笛の。高麗唐をば名にのみ聞きて過ぎし身の。あら故郷恋しや。 詞「かくて年月を送る程に二人の子を持つ。又唐にも二人の子あり。彼等が事を思ふ時は。それも恋しく。又これもいとほしゝ。一方ならぬ箱崎の。二人の子供なかりせば。老木の枝は雪折れて。此身の果は如何ならん。 地「あれを見よ。野飼の牛の声々に。〳〵。子故に物や思ふらん。況んや人倫に於てをや。我身ながらも愚なり。〳〵。いざや家路に帰らん。〳〵。 ロンギ日本子二人「如何に父御よ聞こしめせ。さて住み給ふ唐に。牛馬をば飼やらん。御物語り候へ。 シテ「中々なれや唐の。華山には馬を放し。桃林に牛をつなぐ。是花の名所なり。 日本子二人「さて唐と日の本は。いづれまさりの国やらん。委しく語り給へや。 シテ「愚なりとよ唐に。日の本をたとふれば。唯今尉が牽いて行く。九牛が一毛よ。 日本子二人「さほど楽しむ国ならば。痛はしやさこそ実に。恋しく思し召すらめ。 シテ「いやとよ方々を。設けて後は唐衣。帰国の事も思はずと。 地「語りなぐさみ行く程に。嵐の音の少なきは。松原や末になりぬらん。箱崎に早く着きにけり。〳〵。 ワキ詞「いかに祖慶官人。何とて遅く帰りてあるぞ。 シテ詞「さん候余りに多き牛馬にて御座候ふ程に。さて遅く罷り帰りて候。 ワキ「尤にて候。又尋ぬべき事の候ふ隠さず申すべきか。 シテ「是は今めかしき事を承り候ふ物かな。何事にてもあれ申し上げうずるにて候。 ワキ「さて御事は唐に二人の子を持ちてあるか。 シテ「さん候子を二人もちて候。 ワキ「其名をそんしそいうと申すか。 シテ「あら不思議や。何とて知ろしめされて候ふぞ左様に申し候。 ワキ「其そんしそいう。汝未だ存生の由を聞き。数の宝に易ヘ連れて帰国すべき為めに。只今此所に渡りて候。 シテ「是は思ひもよらぬ事にて候ふ物かな。さて其船はいづくに御座候ふぞ。 ワキ「此方へ来り候へ。あれに繫かりたる船こそ。彼両人の船にて候へ。 シテ「実にこれは某が船にて候。 ワキ「さらば対面し候へ。 シテ「余りに見苦しく候ふ程に。引き繕ひて賜はり候へ。 ワキ「心得申し候。 シテ詞「やあいかにあれなるは唐にとゞめ置きたる二人の者か。 唐子二人「さん候童名そんしそいうなり。 シテ「是は夢かや夢ならば。 唐子二人「所は箱崎。 シテ「明けやせん。 地「春宵一刻其価。千金も何ならず。子ほどの宝よもあらじ。唐は心なき。夷の国と聞きつるに。かほどの孝子ありけるよと。日本人も随喜せり。尊とや箱崎の。神も納受し給ふか。 ソンシ詞「如何に申し候。追風が下りて候ふ急ぎ御船に召され候へ。 シテ詞「いかに箱崎殿ヘ申し候。追風がおりて候ふ程に船に乗れと申し候。御暇申し候ふべし。 ワキ「めでたうやがて御帰国候へ。 日本子二人詞「あら悲しや我等をも連れて御出で候へ。 シテ「げに〳〵出船の習ひとてはたと忘れてあるぞ此方へ来り候へ。 ワキ「暫く。祖慶官人の事は力なき事。此をさなき者どもは。此所にて生まれ相続の者にて候ふ程に。いつまでも某召し使はうずるにてあるぞ。此方ヘ来り候へ。 日本子二人「あら情なの御事や。大和撫子の花だにも。同じ種とて唐の。唐紅に咲く物を。薄くも濃くも花は花。情なくこそ候へとよ。 唐子二人「時刻うつりて叶ふまじ。急ぎ御船に召されよと。はや纜を疾く〳〵と。 シテ「呼ぶ子もあれば。 日本子二人「取り留むる。 シテ「中にとゞまる。 唐子「父ひとり。 地「たづきも知らず泣き居たり。身もがな二つ箱崎の。恨めしの心づくしや。たとへば親の子を思ふ事。人倫に限らず。焼野の雉夜の鶴。梁の燕も。皆子故こそ物思へ。 クセ「況んや我らさなきだに。明日をも知らぬ老の身の。子故に消えん命は。何中々に惜しからじと。 シテ「今は思へばとにかくに。 地「船にも乗るまじ留まるまじと。巌にあがりて十念し。既に憂き身を投げんとす。唐や日の本の。子供は左右に取りつきて。これを如何にと悲しめば。さすが心もよわ〳〵と。為り行く事ぞ悲しき。 ワキ詞「よく〳〵物を案ずるに。物のあはれを知らざるは。唯木石に異ならず。殊更出船の障なれば。はや〳〵暇とらするぞ。とく〳〵帰国を急ぐべし。 シテ詞「余りの事の不思議さに。更に誠と思はれず。 ワキ「こはそも何の疑ひぞや。当社八幡も御知見あれ。偽り更にあるべからず。とく〳〵船に乗り給へ。 シテ「これは誠か。 ワキ「中々に。 地「ありがたの御事や。誠に諸天納受して。此子を我等に。あたヘ給ふか有難や。斯くて余りのうれしさに。時刻を移さず。暇申して唐人は。船に取り乗り押し出だす。悦びの余りにや。楽を奏し舟子ども。棹のさす手も舞の袖。をりから波の鼓の。舞楽につれて面白や。(楽) 地「陸には舞楽に乗じつゝ。〳〵。名残おしてる海面遠く。なりゆくまゝに。招くも追風。船には舞の。袖の羽風も追風とやならん。帆を引きつれて舟子ども。帆を引きつれて舟子どもは。悦び勇みて。唐さしてぞ急ぎける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著