遠矢
シテ 浅利与市 ツレ 源義経 ツレ 井ノ木四郎近清 所 長門壇の浦 義経サシ「扨も源平両家。舟と陸との戦ひにて。海陸の声。天にひゞき波を穿て。震動暫くも止事なし。 与市「扨又平家の方には。山家の兵藤次秀任。九国一島の強弓彎︎。 義経「源氏には和田の小太郎義盛。是も劣らぬ精兵にて。三町計隔たる。平家の勢は。多く矢さきにかかりけり。 同「其戦ひは鬼神も。〳〵。面をむくべき様もなし。源平互ひにあらそひて。矢さけびの音隙もなく。爰をせんどとぞ見えける。 井ノ木一声「武士の。弥猛心をしらま弓。矢さきをそろへあらそひける。 サシ「我は是平家の侍。伊勢の国の住人。井の木の四郎近清なり。 同「いかに源氏方の者共。我弓勢を受て見よと。名乗もあへず近清は。〳〵。重籐の大弓に。大矢を懸て。よつぴきひやうと放つ矢は。雲にうづまき矢叫びし。雷のごとく鳴わたり。暫く有て其矢は。判官の乗給ふ。船の舳さきをくだくかと。矢ぶるひしてぞ立にける。〳〵。 義経「いかに誰か有。 与市「御前に候。 義経「只今平家の舟より射ける矢。船の舳さきにたつたり。いそぎ見て来り候へ。 与市「畏りて候。参りて見候へば。御船の舳さきに。山鳥の羽にて矧だる白篦︎の大矢。十四束三つぶせ。沓巻一束計置て。漆を以て伊勢の国の住人。井の木の四郎近清と書て候。天晴是は聞及びし平家方の強弓引。其いきほひを見せんためにてもや候らん。 義経「誠に渠︎は双びなき。強弓と聞えたるよ。 井ノ木「喃々源氏の船へ物申さう。 与市「何事にて候ぞ。 井ノ木「某唯今仕りたる矢を御返し候へ。 与市「いかに申上候。只今舟より申つる事を御聞あそばされ候か。恐れ多き申事にて候へ共。此矢射返し申さずば。源氏の方の恥辱たるべし。某一矢仕つて。源氏の目をさまさせ候べし。さりながら。敵の矢束は某が矢よりは短ふ候へば。某が矢にて仕らんと。憚りもなく申上れば。 同「判官を始め諸軍勢。与市が言葉のすゑ。頼母敷兵者と。皆々かんじ申けり。 クセ「其時与市。心中に祈念して。南無や八幡氏の神。此矢の功を見せ給へ。縦へ我身は埋木の。朽るとも此弓を。強きにつよく陸奥の。千曳の石もすゑ通る。神の誓ひを。頼むのかりまたの大矢にて。 与市「十五そくみつぶせ。 地「塗籠籐の大弓の。九尺計に見えけるを。三度頂戴礼拝し。能引少時。保つてひやうといる。其矢は四町余をこへ。大船を射抜て。井の木四郎が真中を。はつしと射通せば。井の木はこらへず逆様に落。船底に倒れたり。 歌、同「時の面目弓勢の。〳〵。名を上巻のいと恐ろしき。有様と源平は。少時静まりて。互に船は遥かに隔たりぬ。 義経「いかに与市。只今のふるまひ更に凡慮よりなすにあらず。誠に源氏の運つよく。八幡も御神力を。添へさせ給ふならんと。神感肝にめいずる所に。 歌、同「不思議や雲の中よりも。〳〵。白旗一流れ舞さがつて。源氏の陣にぞ懸りける。 同「其時沖には神霊顕はれ。我は八幡大菩薩なり。此度源氏の軍を守り。平家を亡し天下を治め。弓矢の家を守るべしと。宣ふ御声もはるかに聞え。宣ふ御声も遥かに聞えて。神はあがらせ給ひけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『宴曲十七帖 謡曲末百番』国書刊行会 編