融
観阿弥作 世阿弥作ともいふ 前 ワキ 東国の僧 シテ 塩汲む翁 後 ワキ 前に同じ シテ 融の大臣 地は 京都 季は 秋八月 ワキ詞「是は東国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。此度思ひ立ち都に上り候。 下歌「思ひ立つ心ぞしるべ雲を分け。舟路を渡り山を越え。千里も同じ一足に。〳〵。 上歌「夕べを重ね朝毎の。宿の名残も重なりて。都に早く着きにけり。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。是は早都に着きて候。此あたりをば六条河原の院とやらん申し候。暫く休らひ一見せばやと思ひ候。 シテ一声「月も早。出汐になりて塩竈の。うらさび渡る気色かな。 サシ「陸奥はいづくはあれど塩竈の。恨みて渡る老が身の。よるべもいさや定めなき。心も澄める水の面に。照る月並を数ふれば。今宵ぞ秋の最中なる。実にや移せば塩竈の。月も都の最中かな。 下歌「秋は半身は既に。老い重なりて諸白髪。 上歌「雪とのみ。積りぞ来ぬる年月の。〳〵。春を迎へ秋を添へ。時雨るゝ松の風までも。我身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。浦わの秋の夕べかな。〳〵。 ワキ詞「如何にこれなる尉殿。御身は此あたりの人か。 シテ詞「さん候此所の汐汲にて候。 ワキ「不思議やこゝは海辺にてもなきに。汐汲とは誤りたるか尉殿。 シテ「あら何ともなや。さてこゝをば何処と知ろし召されて候ふぞ。 ワキ「此所をば六条河原の院とこそ承りて候へ。 シテ「河原の院こそ塩竈の浦候ふよ。融の大臣陸奥の千賀の塩竈を。都の内に移されたる海辺なれば。名に流れたる河原の院の。河水をも汲め池水をも汲め。こゝ塩竈の浦人なれば。汐汲となどおぼさぬぞや。 ワキ「実に〳〵陸奥の千賀の塩竈を。都の内に移されたる事承りおよびて候。さてはあれなるは籬が島候ふか。 シテ「さん候あれこそ籬が島候ふよ。融の大臣常は御舟を寄せられ。御酒宴の遊舞さま〴〵なりし所ぞかし。や。月こそ出でゝ候へ。 ワキ「実に〳〵月の出でゝ候ふぞや。あの籬が島の森の梢に。鳥の宿し囀りて。しもんに移る月影までも。孤舟に帰る身の上かと。思ひ出でられて候。 シテ「何と唯今の面前の気色が。御僧の御身に知らるゝとは。若も賈島が言葉やらん。鳥は宿す池中の樹。 ワキ「僧は敲く月下の門。 シテ「推すも。 ワキ「敲くも。 シテ「古人の心。 二人「今目前の秋暮にあり。 地「実にやいにしへも。月には千賀の塩竈の。〳〵。浦わの秋も半にて。松風も立つなりや。霧の籬の島隠れ。いざ我も立ち渡り。昔の跡を陸奥の。千賀の浦わを詠めんや。千賀の浦わを詠めん。 ワキ詞「塩竈の浦を都の内に移されたる謂御物語り候へ。 シテ詞「嵯峨の天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩竈の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。此所に塩竈を移し。あの難波の御津の浦よりも。日毎に潮を汲ませ。こゝにて塩を焼かせつゝ。一生御遊の便とし給ふ。然れども其後は相続して翫ぶ人もなければ。浦は其まゝ干汐となつて。地辺に淀む溜水は。雨の残りの古き江に。落葉散り浮く松陰の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。されば歌にも。君まさで煙絶えにし塩竈の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。 地「実にや詠むれば。月のみ満てる塩竈の。浦さびしくも荒れはつる。跡の世までもしほじみて。老の波も帰るやらん。あら昔恋しや。恋しや恋しやと。慕へども歎けども。かひも渚の浦千鳥。音をのみ鳴くばかりなり。〳〵。 ワキ詞「如何に尉殿。見え渡りたる山々は皆名所にてぞ候ふらん御教へ候へ。 シテ詞「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候ふべし。 ワキ「先あれに見えたるは音羽山候ふか。 シテ「さん候ふあれこそ音羽山候ふよ。 ワキ「音羽山音に聞きつゝ逢坂の。関のこなたにとよみたれば。逢坂山も程近うこそ候ふらめ。 シテ「仰せの如く関のこなたにとはよみたれども。あなたにあたれば逢坂の。山は音羽の峰に隠れて。此辺よりは見えぬなり。 ワキ「さて〳〵音羽の嶺つゞき。次第々々の山並の。名所々々を語り給へ。 シテ「語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺。今熊野とはあれぞかし。 ワキ「さて其末につゞきたる。里一村の森の木立。 シテ「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山。 ワキ「風も暮れ行く雲の端の。梢も青き秋の色。 シテ詞「今こそ秋よ名にしおふ。春は花見し藤の森。 ワキ「緑の空もかげ青き。野山につゞく里は如何に。 シテ「あれこそ夕されば。 ワキ「野辺の秋風。 シテ「身にしみて。 ワキ「鶉鳴くなる。 シテ「深草山よ。 地「木幡山。伏見野竹田。淀鳥羽も見えたりや。 ロンギ地「詠めやる。其方の空は白雲の。はや暮れ初むる遠山の。嶺も木深く見えたるは。如何なる所なるらん。 シテ「あれこそ大原や。小塩の山も今日こそは。御覧じ初めつらめ。猶々問はせ給へや。 地「聞くにつけても秋の風。吹く方なれや峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。 シテ「秋も早。〳〵。半更け行く松の尾の。嵐山も見えたり。 地「嵐更け行く秋の夜の。空澄み上る月影に。 シテ「さす汐時もはや過ぎて。 地「ひまもおし照る月にめで。 シテ「興に乗じて。 地「身をば実に。忘れたり秋の夜の。長物語よしなや。まづいざや汐を汲まんとて。持つや田子の浦。東からげの汐衣。汲めば月をも。袖に望汐の。汀に帰る波の夜の。老人と見えつるが。汐曇にかきまぎれて。跡も見えずなりにけり。跡をも見せずなりにけり。(中入) ワキ「磯枕。苔の衣を片敷きて。〳〵。岩根の床に夜もすがら。猶も奇特を見るやとて。夢待ちがほの旅寐かな。〳〵。 後ジテ「忘れて年を経し物を。又いにしへに帰る波の。満つ塩竈の浦人の。今宵の月を陸奥の。千賀の浦わも遠き世に。其名を残すまうちきみ。融の大臣とは我事なり。我塩竈の浦に心を寄せ。あの籬が島の松陰に。明月に舟を浮べ。月宮殿の白衣の袖も。三五夜中の新月の色。千重ふるや。雪を廻らす雲の袖。 地「さすや桂の枝々に。 シテ「光りを花と散らす粧ひ。 地「こゝにも名に立つ白河の波の。 シテ「あら面白や曲水の盃。 地「浮けたり〳〵遊舞の袖。(早舞) ロンギ地「あら面白の遊楽や。そも明月の其中に。まだ初月の宵々に。影も姿も少なきは。如何なる謂なるらん。 シテ「それは西岫に。入日のいまだ近ければ。其影に隠さるゝ。たとへば月の有る夜は。星の薄きが如くなり。 地「青陽の春の始めには。 シテ「霞む夕べの遠山。 地「黛の色に三日月の。 シテ「影を舟にも譬へたり。 地「又水中の遊魚は。 シテ「釣と疑ふ。 地「雲上の飛鳥は。 シテ「弓の影とも驚く。 地「一輪も降らず。 シテ「万水も昇らず。 地「鳥は池辺の樹に宿し。 シテ「魚は月下の波に伏す。 地「聞くとも飽かじ秋の夜の。 シテ「鳥も鳴き。 地「鐘も聞えて。 シテ「月も早。 地「影傾きて明方の。雲となり雨となる。此光陰に誘はれて。月の都に入り給ふ粧ひ。あら名残惜しの面影や。名残惜しの面影。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著